「えんむすびの神さま」として知られる地主神社は三年坂から歩いて5分、清水の舞台を出ると、すぐ左手にあって、修学旅行生や、えんむすびの祈願に訪れる参拝者で年中賑わっている。 特に境内にある「恋占いの石」は、若い男女はもとより、海外からの参拝者にまでたいへんな人気である。 創建期は不詳で神代(日本の建国以前)とされ京都でも最古の歴史がある。本殿・拝殿・総門・境内地が国の重要文化財指定で、世界遺産に登録されている。 1633年(寛永10)徳川家光が再建した本殿は極彩色の華麗な建物で入母屋造りと権現造りを折衷したもので、双堂という奈良時代の様式を今に伝える。 境内は桜の名所で知られ謡曲「田村」「熊野」にもうたわれた名桜「地主桜」がある。 ◆由緒 清水八坂一帯の産土神(うぶすなかみ)で、元は地主権現とよばれ、明治維新後に現在の名に改めた。祭神として、大国主命(おおくにぬしのみこと)とその父母神素戔鳴尊(すさのおのみこと)・櫛名田姫(くしなだひめ)ら五柱を祀る。 創建は奈良時代以前であり、平安遷都と共に皇室をはじめ広く信仰を集めた。天禄3年(972)の臨時祭には、円融天皇が行幸し、その後も歴代天皇の行幸が伝えられている。 現在の社殿は、清水寺本堂と同様寛永年間(1624~1644)の徳川家光による再建で、桃山時代の様式による華麗な建物である。本殿、拝殿、総門はいずれも重要文化財に指定されており、拝殿天井の龍の画は狩野元信の筆と伝えられている。境内には桜樹が多く、「地主(じしゅ)の桜」と呼ばれ、古くから桜の名所として有名で、謡曲「田村」、「熊野(ゆや)」、小歌集「閑吟集」などにもしばしば登場する。 また、縁結びの神として広く崇敬をあつめている。 ◆恋占いの石 ご本殿前の左右にある守護石で両目をとじて反対側の石にたどりつくことができれば恋の願いがかなうという。 一度でできれば願いも早くかない、できなければ願いがかなうのも遅れるという。また友人などのアドバイスをうけると願いを成就するにも人の助けがいるという。
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安井金比羅宮
祭神として崇徳(すとく)天皇、大物主神(おおものぬしのかみ)、源頼政(みなもとのよりまさ)の三神を祀る。 社伝によれば、保元の乱(1156)に敗れて讃岐(香川県)で崩じた崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(1275~1277)に大円法師が建立した光明院観勝寺が当社の起こりといわれている。 その後、観勝寺は応仁の兵火により荒廃し、元禄8年(1695)太秦(うずまさ)安井(右京区)にあった蓮華光院が当地に移建され、その鎮守として、崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。 本殿東の絵馬館には、当社に奉納された大小様々な絵馬が陳列されており、江戸時代の画家山口素絢(そけん)等の作品も含まれている。 また、境内にある「久志(くし)塚」は、古い櫛の供養のために築かれた塚で、毎年9月の第四月曜日に櫛祭(くしまつり)が行われる。 ◆悪い縁を切る 縁切り縁結びの碑(いし) 当宮の主祭神崇徳天皇自ら国家安泰を祈られもろもろ一切を断って祈願されると云う故事にに習い江戸時代より断ちもの祈願のならわし続けられ縁切り祈願が生まれました。旧きを脱皮し常に新しい新鮮な自分を甦がえらせる縁切り、もろもろの祈願を成就にみちびく縁結び共に歓迎。これは神道本来の祓いに通じる道と覚えます。 上部からの亀裂をつたって神の力は中央の円形に注がれ、夫々願いを素直に神札に記し、円形に向かって表から裏に(縁切り)裏から表に(縁結び)それぞれ心に祈りを込めてくぐりぬけて下さい。くぐりぬけられた後に、神札を石面に貼ってください当宮では毎朝拝時に必ずこの碑にお祓いを行いお清めをつづけて参ります。
八坂神社
素戔鳴尊(すさのおのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめみこと)およびその御子八柱神(やはしらかみ)を祭神とする。 明治以後八坂社と称し、古くは祇園社と呼ばれ、一般に「祇園さん」の名で親しまれており、全国祇園社の根本神社である。 この神社は貞観18年(876)僧円如(えんじょ)が牛頭天王(ごずてんのう)を迎えたのが起こりといわれ、牛頭天王が素戔鳴尊になって現れたといわれる疫病除けの神である。 疫病流行に際し、京都の人々はこの神を祭って疫神をはらおうとした。 こうして祇園会が始まり、平安時代中期から山鉾巡行も起こり、幾多の変遷を経て現在も毎年7月祇園会が当社の祭礼として盛大に行われる。 一方本殿は平安時代の初め藤原基経(もとつね)がこの地に観慶寺感神院を建て寺内に本殿を設けたのが始まりといわれる。 現本殿(重要文化財)は承應3年(1654)の再建であるが、平安時代末期の様式を伝え祇園造として有名である。 東山通に面する樓門は西門で室町時代の建物(重要文化財)である。 なお、毎年元旦未明に行われるおけらまいりも有名で多数の市民で賑わう。 ◆由緒 素戔嗚尊(すさのをのみこと)・櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)及び八柱御子神(やはしらのみこがみ)を祭神とする神社で、一般に「祇園さん」又は「八坂さん」として親しまれている。 社伝によると、平安遷都以前の斉明天皇2年(656)にこの付近に素戔嗚尊を祀ったのが当社の起こりといわれている。 京都三大祭の一つである祇園祭(ぎおんまつり)は、毎年7月に行われる当社の祭礼で、平安時代の貞観(じょうがん)11年(869)に各地で疫病が流行した際に、当時の国の数に合わせて六十六本の鉾を立て、神泉苑に神輿を送り、その鎮まりを祈った御霊会(ごりょうえ)(怨霊を退散させる祭り)を起源とするもので、天禄元年(970)ころから毎年行われるようになった。 大晦日の夜から元旦にかけて行われる「をけら詣り」は、薬草である「をけら」を混ぜて焚いた「をけら火」を授かり、新年の無病息災を祈るもので、毎年多くの人でにぎわう。また、1月3日には十二単衣姿の女性による「かるた始め」が行われる。 ◆青龍石の云われ 古くから、八坂神社本殿の位置は平安京の東(青龍の神に護られた土地)にお祀りされています。 陰陽道の思想(風水思想 等)では 青龍は気が集結する場所と考えられ、御本殿の床下の池(龍穴)には大地の気(力)が水と共に湧き出ているとされています。その青龍の地から湧く水で清め 八坂の大神様に供えた 石が「青龍石」も云われです。青龍石をお持ちになり 八坂の大神様の御利益と 平安京の大地の大いなる「力」をお受けください。 青龍石は 御自身でお持ちになると「力」を頂き、家の神棚か、家の中心より東(青龍)の位置にお祀りすると「福」を呼ぶと言われています。 ◆祭神 蘇民将来 むかし祖神(おやがみ)が諸国を巡っては日暮れに宿を請うたところ巨旦将来(こたんしょうらい)は富み栄えていたのに貸さず、蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しかったけれども粟穀で座をしいて粟の粥で手厚くもてなしましたので、「われはハヤスサノヲの神なり」といい、後年疫病が流行しても茅の輪をつけて「蘇民将来の子孫なり」といえば、災厄から免れしめると約束され、巨旦将来の子孫は皆絶えてしまいましたが、蘇民将来の子孫は今に栄えています。
霊光殿天満宮
俊成社
福長神社
本社は福井(さくいの)神(かみ)、綱長井(つながいの)神(かみ)、稲荷神を祭神として祀る。 社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福(ふく)長稲荷(ながいなり)」とも呼ばれた。 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官(じんぎかん)西院(さいいん)(現在の大宮竹屋町辺)に祀られていた延喜式内(えんぎしきない)社、宮中(きゅうちゅうの)神(かみ)の座摩巫(いがずりのみかんなぎの)祭神(まつるかみ)五座(生井(いくいの)神(かみ)、福井神、綱長井神、波比伎(はひきの)神(かみ)、阿(あ)須波(すはの)神(かみ))のうちの二座である。 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天(てん)正(しょう)年間、豊臣秀吉の聚(じゅ)楽第(らくだい)造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正二年(一五七四)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。 天明(てんめい)の大火(一七八八)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。