護浄院

常施無畏(じょうせむい)寺と号し、天台宗の寺で通称清荒神という。 本尊の清三宝大荒神は千二百余年前、光仁天皇の皇子開成親王の作といわれ、摂津の国にあったのを後小松天皇の勅により僧乗厳(じょうげん)が醒ヶ井高辻の地に勧請し、初めて清荒神といわれた。 その後、慶長5年(1600)ここに移され、後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を合せ祀って長日の御祈願を行い、元禄10年護浄院を院号を賜わり今日に至っている。 また、一般の家庭では、かまどの上に祀られ火の守護神とされる。 尊天堂内に安置される福徳恵美須神はもと禁裏に奉安せられていたが、明治維新に際しここに移され、京都七福神の一に数えられ、世に尊信が篤い。 なお、荒神町の地名はここより起ったものという。

水火天満宮 

923年(延長1)醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を祀ったと伝える。 水難火難除けの神として知られ、もと上京区上天神町にあったが堀川通の拡張により昭和25年現在地に移転した。 菅公(道真)が降り立ったという登天石が境内にある。

建勲神社

織田信長を祀る神社で、通称「けんくんじんじゃ」とも呼ばれる。 天下を統一した信長の偉勲を称え、明治2年(1869)明治天皇により創建された。 同8年(1875)別格官幣社に列せられ、社地を船岡山東麓に定め、次いで現在の山頂に遷座した。 船岡山は、平安京正中線の北延長上に位置し、平安京の玄武に擬され、造営の基準点にされた所で、本能寺の変(1582)の後、豊臣秀吉が正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅許を受け、主君である信長の廟所を定めている。 信長着用の紺糸威胴丸(こんいとおどしどうまる)、桶狭間の合戦の際の義元左文字の太刀、太田牛一自筆本の「信長公記(しんちょうこうき)」などの重要文化財のほか、信長ゆかりの宝物を多数有する。 10月19日の船岡祭は、祭神・織田信長が永禄11年(1568)初めて入洛した日を記念したものである。 ◆由緒 天下を統一した織田信長の偉勲を称え、明治2年明治天皇が創建。 1910年(明治43)船岡山の山腹にあった社を山頂に遷祀した。建勲の神号は明治天皇が下賜。明治8年別格官幣社指定。 なお船岡山は平安京造営の際、玄武の山として北の基点となり、また、平安時代は大宮人の清遊の地として名高い。 応仁の乱の際は西方の陣地となる。国の史跡で眺望絶景。 10月19日の大祭は「船岡祭」といい、祭神・織田信長が1568年(永禄11)、戦国の世を終わらすべく初めて入洛した日を記念した祭典。 神殿祭のあと信長公ゆかりの敦盛の舞舞楽奉納があり、年により信長公ゆかりの宝物などの公開や火縄銃の実射等の奉納がある。

御霊神社(上御霊神社)

祭神として崇道天皇(早良(さわら)親王)、吉備真備(きびのまきび)、橘逸勢(たちばなのはやなり)はじめ十三柱の神霊を祀る。 この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された上出雲寺(かみいずもでら)があったが、延暦13年(794)平安京奠都(てんと)に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに薨(こう)じた八柱の神霊を祀ったのが当社の初めである。 のち明治天皇の御願により祭神五柱が増祀され、平安時代には御霊信仰(天変地異や疫病流行は怨霊(おんりょう)のたたりであるとする信仰)が盛んで、この怨霊をなだめ祀るための御霊会(ごりょうえ)が数々行なわれたが、当社は古来疫病除の霊社として有名である。 このため創建以来朝野の信仰あつく、とくに御所の守護神として皇室の尊信が深い。本殿は享保18年に下賜された賢所(かしこどころ)御殿の遺構を復元したものであり、また当社には神輿・牛車等皇室の御寄附品多数を蔵する。 境内は「御霊の杜(もり)」といい、応仁元年(1467)正月18日畠山政長と義就(よしなり)の合戦が行なわれ応仁の大乱の発端となったところである。 御霊祭は明治までは8月18日であったが、現在では当日は例祭(社頭(しゃとう)の儀)、5月1日神幸居祭(しんこういまつり)、同月18日還幸祭が行なわれる。

白雲神社(御所の弁天さん)

京都御苑内に鎮座。旧西園寺家の鎮守社で、祭神は市杵島姫命、妙音弁財天とも称し、音楽の神様としても信仰されている。 1224年(元仁1)、西園寺公経が北山殿(現在の金閣寺の地)造営の際に建立した妙音堂に由来するとされる。その後幾多の変転を経て、近古には赤八幡京極寺にもしばらく鎮座され、1769年(明和6)、西園寺邸の移転と共に現在地に移り再興、禁裏御祈祷所と定められ、また庶人の信仰も集めるようになった。明治になって西園寺家は東京へ移り、妙音堂は廃祀の危機に合うが地元有志の尽力により存続、1878年(明治11)、かつての鎮座地名をとり現社名に改められる。 礼拝は巳の日毎、午前7時より30分位の参拝式が行われ、お祓い、お清めが受けられます(参拝ご自由・無料) 例祭は毎年6月15日午後1時よりお火焚祭は11月10日午後2時より執行されます。

大田神社

古くは恩多社(おんたしゃ)と呼ばれたこともあり、上賀茂神社の攝社である。祭神には天鈿女命(あめのうずめみこと)と猿田彦命(さるたひこのみこと)を祀っており、延喜(えんぎ)式内の古社で、この付近の沼沢池を開墾して栄えた賀茂氏の崇敬をうけた神社である。 右方東側の沢地を「大田の沢(おおたのさわ)」といい、野生のかきつばたが美しい。藤原俊成(しゅんぜい)卿の古歌に  神山や大田の沢のかきつばた  ふかきたのみは 色にみゆらむ と詠われ、平安時代からこの付近の沢地にはかきつばたが咲きみだれて、名勝となっていたようである。 今日でも5月中旬頃には、濃紫、鮮紫の花が美しく咲く。このかきつばたの群落は現在天然記念物に指定されている。 例祭は4月10日と11月10日である。

敷地神社(わら天神)

祭神のコノハナサクヤヒメは北山天神丘に古代から祭られていたが、1397年(応永4)足利義満が金閣寺造営のさい鎮守神として現在地に遷座した。 昔から安産の神として‘はら帯天神’、‘わら天神’と称えられた。 摂社の六勝神社は開運、学問の神としても知られる。 ◆由緒 敷地神社(わら天神宮)の起源は、太古山背国葛野郡衣笠村に降臨された北山の神です。 六国史を菅原道真が分類編纂した「類聚国史(るいじゅうこくし)」によれば、天長5年(828)に都に大雨、地震があったおり、時の淳和(じゅんな)天皇が勅使を遣わして北山の神に幣(みてぐら)を奉ったと見られることから、その創建は平安建都以前と推測されます。 この地に氷室が設けられることとなり、その夫役として加賀国の人々が移住してきました。彼らは菅生石部神社(現 石川県加賀市)の崇敬者であり、移住にあたりその分霊を勧請し、御祭神を菅生石部神の御母木花開耶姫命と定め、北山の神の西隣に祀りました。 応永4年(1397)、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便になったことから、両社を合祀して現在地に遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社とし、爾来600年になります。当社は単に「天神宮」とも称していました。また、古来より稲わらで編んだ籠でもって神饌を捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。後にそのわらを切り取り、安産のお守りとして妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という名称が広まり定着しました。

菅原院天満宮神社(烏丸の天神さん)

菅原氏の邸宅「菅原院」があったところで、菅原道真、その父祖が祀られる。 菅原道真の父是善ら祖父清公以来三代が居住し、道真生誕の地と伝えられる。道真没後、その菩提を弔うために菅原院の地に歓喜光寺が建立され、境内には道真と父祖の小祠が祀られた。 歓喜光寺はその後六条河原院へ移るが、その小祠は残されて現在に至っている。 境内には菅公産湯の井戸等ゆかりの遺物がある。太宰府天満宮への遺蹟伝承地を結ぶ菅公聖蹟二十五拝の第1番になっている。

白峯神宮

当神宮は、崇徳(すとく)天皇及び淳仁(じゅんにん)天皇を祀る。 明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建された。 次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。 例祭は4月14日(淳仁天皇祭)・9月21日(崇徳天皇祭)で、蹴鞠(けまり)や薪能(たきぎのう)が奉納される。 この地は蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家(あすかいけ)の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られ球技愛好者に崇敬されている。他に「伴緒社(とものおしゃ)」「潜龍社(せんりゅうしゃ)」などの境内社があり、「おがたまの木」は京都市の天然記念物に指定。