観音寺

慈眼山と号し、浄土宗に属する。慶長12年(1607)、梅林和尚が一条室町に創建した。その後、天明の京都大火に遭って、建物をはじめ記録を焼失してしまったので、正確な寺史は困難となっている。 伝えによれば、山門は旧桃山城の牢獄の門を移建したものといわれ、罪人を釈放するに当たってこの門前で百回たたいたと伝えられ、「百たたきの門」と呼ばれていた。また、門の扉は楠の一枚板でできており、「出水の七不思議」の一つに数えられている。境内の観音堂の本尊は運慶の弟子安阿弥の造顕といわれ、堀川一条にあって1390年に疫癘(えきれい)の時死屍を捨てるものが多く、山名重氏は鎮疫を祈念し、霊験により死屍を蘇生させた。 延喜18年(918)に没した三善清行の葬送の時、その子浄蔵が佛神に祈って蘇生させたという、返り橋の名は戻り橋と呼ばれ、観音堂の信仰を集めて千人堂と称せられるようになった。慶長の頃に現地に移され、洛陽観音ニ十七番に数えられている。境内の「よなき地蔵」も著名である。