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霊光殿天満宮
福長神社
本社は福井(さくいの)神(かみ)、綱長井(つながいの)神(かみ)、稲荷神を祭神として祀る。 社名は、福井、綱長井の二神を合祀することによるが、稲荷神も合祀することから「福(ふく)長稲荷(ながいなり)」とも呼ばれた。 福井神と綱長井神は、平安京大内裏内の神祇官(じんぎかん)西院(さいいん)(現在の大宮竹屋町辺)に祀られていた延喜式内(えんぎしきない)社、宮中(きゅうちゅうの)神(かみ)の座摩巫(いがずりのみかんなぎの)祭神(まつるかみ)五座(生井(いくいの)神(かみ)、福井神、綱長井神、波比伎(はひきの)神(かみ)、阿(あ)須波(すはの)神(かみ))のうちの二座である。 現在の地に遷された経緯については、社伝によると天(てん)正(しょう)年間、豊臣秀吉の聚(じゅ)楽第(らくだい)造営、あるいは廃城の際と伝えられるが、天正二年(一五七四)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられる洛中洛外図屏風(狩野永徳筆)には、すでに現在地に福長神社が描かれている。 天明(てんめい)の大火(一七八八)で焼失した後は小さな祠となったが、明治時代以降も水の神(屋敷内の井戸や泉の神)として地元の人々から篤く信仰されている。
本満寺
日蓮宗本山。1410年(応永17)近衛関白道嗣の嫡子、玉洞妙院日秀が今出川新町に朝廷より敷地三万坪を与えられて創建。 広宣流布山、本願満足寺と号す。 1536年(天文5)の天文法華の乱後、12世日重の代、1539年(天文8)関白近衛尚道の外護により現在の地に移り、後奈良天皇の勅願所となる。 1751年(宝暦1)35世日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈り、以来、将軍家の祈願所ともなった。 本尊は十界大曼陀羅。 又、尚道奉安の祖師像は、芹生村山麓禄より発見されたものでその山中より法華経読誦の声が上がったという有名な説がある。 境内墓地には山中鹿之介の墓、本堂脇には徳川家康二男秀康の正室、蓮乗院の石廟がある。 伝太子筆紺紙 金泥一字宝塔法華経並普賢経は重要文化財。 宗祖日蓮大聖人真蹟十界大曼荼羅御本尊ニ幅、狩野元信筆の祖師像はじめ寺宝多数。 尚、重要文化財は京都博物館 預け。
下御霊神社
社伝によれば、大同2年(809)不運のうちに亡くなった伊予(いよ)親王(桓武天皇の皇子)とその母の藤原吉子(ふじわらのよしこ)の霊をなだめるために、承和6年(839)に創建されたといわれている。 祭神は、後に、崇道(すどう)天皇(早良(さわら)親王)、吉備真備(きびのまきび)、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)、火雷天神(からいてんじん)を加えて八所御霊としている。 当初、出雲路(上京区)にあり、御霊神社の南にあったことから下御霊神社と呼ばれるようになったといわれ、以後、社地を転々とし、天正18年(1590)豊臣秀吉の都市整備により当地に移転してきた。 古来より、京都御所の産土神として崇敬され、享保年間(1716~36)霊元天皇は当社に行幸し、宸筆の祈願文を納めている。 本殿は、寛政3年(1791)仮皇居の内侍所を移建したもので、表門は、旧建礼門を移したものといわれている。 境内の垂加(すいか)社には、江戸時代の国学者、山崎闇斎(やまざきあんさい)を祀る。
宗像神社
京都御苑内に鎮座。 祭神は宗像三女神である多紀理毘売命・多岐津比売命・市岐嶋比売命。 北家藤原氏の祖、藤原冬嗣が795年(延暦14)に、平安京の東西両市の守護神として筑前国の宗像神社を勧請したのが創祀とされ、その後冬嗣の自邸小一条第に移したと伝えられる。 小一条第は花山院家が相続したことから同家が別当となる。 東京遷都にともない公家町は御苑になされ、邸内社が府社となった。 御神木の楠は樹齢600年とも800年とも言われる。 境内社に、花山稲荷神社・京都観光神社・小将井神社・繁栄稲荷神社・金比羅宮がある。 例祭、9月15日。近年は例祭日の後の日曜日又は祝日に、神賑いの日として神楽舞など奉納を行っている。 春と秋には花山稲荷神社・京都観光神社の祭礼があり、神楽舞やヴァイオリンのミニコンサートなど奉納。 1~2月の境内では水仙が咲き乱れる。 4月上旬は桜。10~11月にカリンの実がたわわに実る。 紅葉の木も色づく11月中旬から下旬が見頃である。
厳島神社
法輪寺(達磨寺)
この寺は、臨済宗妙心寺派に属し、達磨寺の名で親しまれており、享保12年(1727)大愚和尚を開山とし、開基荒木宗禎に帰依を受けた万海和尚が創立した。 十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、珍しい等身の金箔大寝釈迦木像や、白隠禅師の夜船閑話で知られた白幽子の旧墓石がある。 三国一を称する起上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨およそ八千余をまつる達磨堂は特に有名で、節分は参詣者でにぎわう。 本堂には、わが国映画創業以来の関係者四百余霊がまつられる貴寧磨(きねま)寺や、島津源蔵夫妻の念持仏をまつる学神堂等がある。 達磨竹の逆さ竹を中心に印度・中国産の竹の珍種も繁茂し、本堂の東側には禅の悟りの段階を示す十牛の庭、南側に白砂の上に苔で心字を描き出したユニークな庭がある。 ◆だるま寺〔法輪寺〕の略縁起 この寺は洛陽円町、北野天神ゆかりの紙屋川畔にある。臨済宗妙心寺派の名刹であり、通称「だるま寺」の名で親しまれている。 享保13年(1718)大愚宗築禅師を開山とし、荒木光品宗禎居士が開基となり、万海慈源和尚が創建したものである。創建には十年の歳月を要したといわれている。開基の荒木氏は両替商であり、武家の開基になる寺院の多い妙心寺派にあっては異色の禅刹である。 爾来、春秋260年、三度の天災地変に遇い、寺運もまた盛衰があった。しかし近代にいたり、昭和8年第十代伊山和尚を迎えるや、檀信徒の帰崇を一身に集め、大書院の建立が成った。伊山和尚は三十七歳の時に、名著『白隠和尚全集』を刊行し、白隠の名とともに伊山和尚の名は江湖に響きわたった。また和尚はつとに起き上がり達磨禅を鼓吹して、得意の文筆と長広舌とによって、起き上がり小法師をもって、禅の大衆化、生活化をはかった。 戦後、起き上がり達磨堂を建て、達磨節分会をはじめ、少林寺拳法道場を開いた。かくして、だるま寺(法輪寺)の名は洛陽に高く、日本中に普及してきた。 当寺は市街地にありながら、五千平方メートルの境内に創建当初の姿を残す本堂を中心に諸堂の甍がそびえている。三国最初随一の起き上がり達磨堂、朱塗に輝く衆聖堂、活眼達磨型煉瓦が天にそびえる大本堂、拳法道場などの建物がある。 毎年二月の節分には数万人の参詣者でにぎわい、一山はことごとく達磨で埋まる。諸願成就、厄除開運、疾病速消の縁起達磨が授与されているのは同寺だけである。 ありがたや だるまも石も 苔むして ◆起上(おきあがり)達磨の由来 インドから中国へ禅を伝え、禅宗の初祖となった達磨大師は、今日、日本では「だるまさん」として親しまれ、子供にいたるまで知らぬものはない。 達磨大師は西暦527年、インドから海路3年かかって中国に渡られた。そして当時仏心天子とたたえられていた梁の武帝を「無功徳」と喝破し、揚子江を渡り崇山の少林寺に去って、この地で面壁九年、手も足もなくなり、尻も腐ったと世間が評判するほどの忍苦の修行をなされ、禅宗の開祖となられたのである。 積極和朗の気に富む日本の国民性は、この達磨大師の忍苦の精神を慕い、貧禍疫病を転じ福寿を得んとの願いから、ついにこの静的坐禅の面壁達磨を動的七転八起の起き上がり達磨に姿を変え、日本独特の達磨に発展させたのである。 ここにおいて達磨大師は、仏壇や寺院から十字街頭に進出し、子供のためには玩具となり、大人のためには厄除縁起の神となり、千変万化して天真流露の活躍をすることとなった。 「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力である。転んだ力の大きさで起き上がり、無抵抗の力で、苦にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間生活のシンボルが、起き上がり達磨の本質である。達磨寺は、この起き上がり達磨運動の根本道場である。 天竺の達磨老大師 日本の起き上がり小法師 彼にあっては、堂々、七宗を伏し 我にあっては、転輾、孩児を駭かす (白隠禅師) ◆本堂 単層、入母家、瓦葺、九六の本堂といわれ、広さおよそ百坪。享保3年(1718)の創建。3力年かけて初めて解体修理をして樫の名木でみごとに復元、昭和58年4月吉日落慶した。本堂前椽正面壁間高く「転法輪」の山額が掲げられる。当時の琉球中山国円覚寺世代の月羅山和尚の名筆である。車の輪が廻るように、仏法を説いて止めてはならぬ。仏法を行じて絶えてはならぬ。法輪寺建立の精神がここに書いてある。 ◆仏涅槃木像 金箔等身蓮上聡耳の木像。時代は桃山、4百余年前の作といわれる。仏頭、仏顔、仏身、仏足に触れてわが身を按ずると智慧と徳相と寿命とを得ると尊崇がきわめて深い。 ◆衆聖堂 山田無文老師の命名である。階上には仏涅槃木像などと共にキネマ殿(尾上松之助、牧野省三、大河内伝次郎、阪東三津五郎、望月優子、田中絹代の各氏はじめ、映画人6百有余霊を祀る)。階下には樟一本造り大達磨立像、十六羅漢木像、千変万化する達磨の諸相八千体などを奉安する。 ◆達磨天井画(樋口文勝老師画) 戦後世に達磨三福人とたたえられるは、蒐集して日本一は木戸忠太郎翁。説法して日本一は先住伊山和尚。画いて多数日本一は樋口文勝老師である。この天井画は老師83歳時の筆。賛は無文老大師が「不倒」と雄渾に書かれている。 ◆起き上がり達磨五訓 一、きはながく こころはまるく はらをたてずに ひとはおおきく おのれはちいさく 二、文句なしただ七転び八起して働くほかに手なし足なし。 三、働くはハタを楽にし己が苦を、苦にせず人の動く姿ぞ。 四、叩かれて内にふくれる達磨かな。 五、日の本の女性のかがみ姫達磨、内強うして眉目うるわしく。 洛陽大宝山法輪寺 (起上達磨寺) 願首比丘 弗云窟 大義拝願 ◆由緒 臨済宗妙心寺派に属し、三国随一といわれる起上り達磨をはじめ、心願成就を祈って奉納された八千余もの達磨をまつる達磨堂に祀っていることから、達磨寺の名で親しまれている。 江戸時代の享保12年(1727)に萬海和尚が創立したといわれ、珍しい等身大の寝釈迦木像、十六羅漢木像、徳川時代の鋳匠藤原国次作の妙音の弁天鐘、白隠禅師の「夜船閑話」で有名な京都の白川山中で数百年生きた仙人とされる白幽子の旧墓石などがある。 本堂には、我が国映画創業以来の関係者四百余霊が祀られる貴寧磨(きねま)殿や、島津源蔵(島津製作所の創業者)夫妻の念持仏を祀る学神堂等がある。 また、本堂の南側には禅の悟りの境地を示す無尽庭がある。
福勝寺
妙覚寺
妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つである。 開山は日像上人とされているが、実際には竜華院日実上人が創建した寺である。 はじめ四条大宮、のち二条衣棚(ころものだな)に移ったが、豊臣秀吉の京都都市整理によってこの地に移転した。 この大門は、当寺に残る記録によると、豊臣秀吉が天正18年(1590)に建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文3年(1663)当地に移建したものとされているが、この記録よりも少し建築時代は古いという意見もある。 いずれにしても、安土桃山時代の建築であることは間違いなく、寺伝が正確とすれば西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。 城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られてあり、建築史上興味ある建物である。