岩上神社

伝えによれば,二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷(うつ)され、更に中和門院(ちゅうわもんいん)(後(ご)陽(よう)成(ぜい)天皇の女御の一人で後(ご)水尾(みずのお)天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。 吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。 子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石(いし)」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院(れんじょういん)という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったという。 その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。 以降、授乳、子育ての信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。寺は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(一七八八)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。 明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋(ちきりや)が敷地内に祠(ほこら)を構え、以降「岩上神社(岩上(いわがみ)祠(し))」となって今に至る。 数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。

慈眼寺

当寺は、福聚山(ふくじゅざん)と号する曹洞宗の寺である。 天正16年(1588)鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の北の方(嶽星院(がくせいいん))が、父に当たる熊本城主、佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ)の菩提を弔うため、信秀(信長の父)の伯父に当たる大雲永瑞(えいずい)を請して建立された。 当初、西陣の地に建てられたが、後、寺町丸太町に移され、次いで寛文3年(1663)この地に再建された。 成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功をたてたが、信長歿後の天正15年(1587)、肥後国(熊本県)の検地に際し、住民の反乱を招いた責任を問われ、豊臣秀吉より切腹に処せられた。 境内墓地には、江戸末期の南画家、山本梅逸(ばいいつ)の墓がある。 また、梅逸筆「名花十友図」・「雲龍」、孫億筆「牡丹小禽図」(京都国立博物館寄託)、載文進筆「双鹿図」、曽我蛇足(雪舟の弟子)筆「山水図」等の絵画や、鷹司家愛用の煙草盆等を有する。

浄土院(湯沢山 茶くれん寺)

天台宗般舟院の穏居所として創建。1587年(天正15)北野大茶会の折、豊臣秀吉が立ち寄り茶を所望したが、庵主はへたに出せば恥をかくだけ、と白湯(さゆ)ばかり出したので、秀吉は「湯沢山茶くれん寺」と命名。 この一言が別名になった。 名水の井戸跡は今も残っている。浄土宗。本堂に、阿弥陀如来坐像(重文)が安置されている。 建立:藤原時代末期 本堂の屋根には寒山、拾得像の焼き物が乗せられています。向かって右側が寒山像で巻き物を携えています。左側にはほうきに乗った 拾得像があります。 いずれも安土桃山時代の陶工で楽家(千家十職の一つ)初代長次郎の作と伝えられています。

報恩寺(鳴虎)

前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。 天正年間(1573~92)現在地に移った。 豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。 「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。 門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。 客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌と、その父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。 観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。

浄光寺

当寺、浄土宗浄光寺の境内墓地に、江戸時代文人画の大家池大雅の墓がある。墓は碑面に「故東山画隠大雅池君墓」と二行に記し、側面に淡海竺常(たんかいじくじょう)の撰文になる銘文を刻んでいる。 大雅は享保8年(1723)京都の生まれ。姓は池野氏、名は無名、大雅、玉海などと号した。 若くより絵を志し、柳里恭(りゅうりきょう)や祇園南海に学んだほか、中国の画論や画譜を通じて独学で南画を研究した。 また禅を修行し、日本全国を旅行した。こうして生まれつきの超俗的な性格と相まって、むぞうさな画法で人物や風景を詩的に表現する独自の文人画を大成した。 代表作に黄檗(おうばく)山万福寺の約30面のふすま画などがある。 30才の頃、祇園町の娘、町と結婚し洛東真葛ヶ原に草庵を建てて住んだ。 妻町も玉瀾(ぎょくらん)と号する画家として有名。夫妻とも、数々の奇行が伝えられている。 安永5年(1776)大雅は54才で歿し遺言により当寺に葬られた。

雨宝院

北向山雨宝院と号する高野山真言宗の寺である。 もとは、大聖歓喜寺(だいしょうかんきじ)と呼ばれ、千本五辻(せんぼんいつつじ)にあったが、応仁の兵乱(1467)により堂宇は荒廃し、天正年間(1573~92)に当地に再興されたものといわれている。 本堂に安置する本尊聖天(歓喜天)像は、像頭人身六臂(ぴ)の等身像で、嵯峨天皇の御病平癒祈願に一刀三礼して造られたものと伝えられている。 観音堂に安置する千手観音立像は、藤原初期の重要な作風を示す優品であり、重要文化財に指定されている。 また、胎蔵界(たいぞうかい)を表わすあせかき弘法大師像も有名である。 境内東南にある手洗井戸は「染殿井(そめどのい)」といい、この水を染物に用いるとよく染まるといわれ、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがないという。 本堂前の桜は「歓喜桜」といい、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花が咲く。その隣にある松は「時雨(しぐれ)の松」といい、久邇宮(くにのみや)朝彦親王が当院参詣の折、にわか雨をこの松の下でしのがれたと伝えられている。 ◆由緒 北向山(ほっこうさん)雨宝院と号する古義真言宗の寺で、「西陣の聖天さん」として親しまれている。 本堂に安置する本尊「聖天(しょうてん)(大聖(だいしょう)歓喜天(かんきてん))像」は、821年、弘法大師(空海上人)が嵯峨天皇の御悩平癒(へいゆ)を祈願して安置したものとされ、それが当寺の始まりと伝えられる。 観音堂に安置する千手観音立像は、重要文化財に指定されており、また、大師堂の本尊は汗をかくほど辛いことでも助けてくれるという「阿吽(あうん)あせかき弘法大師像」として知られている。 境内東南には、その水を染物に用いるとよく染まるとして有名な「染殿の井(そめどのい)」があり、夏の旱魃(かんばつ)時でも涸(か)れることがない。また、本堂前の「歓喜桜(かんきざくら)」は、御室の八重桜と同種のもので、根元から八重の花を咲かせる。その隣にある「時雨(しぐれ)の松」は、久邇宮朝彦(くにのみやともひこ)親王が当院参詣の折、その下でにわか雨をしのがれたと伝えられている。 ◆染殿井 この井戸は「染殿井」(そめどのい)と呼ばれています。 染色に適した軟水で、西陣の染色業者達が「染物がよく染まる」と重宝したといわれています。 本隆寺の千代の井、首途八幡宮の桜井、個人宅にある安居井、鹿子井とともに「西陣五水」にも数えられています。染色には大量の水が必要ですので、狭い区域にこうして井戸が沢山ある事も西陣が染め物で栄えた理由のひとつだったのかもしれません。 ちなみに京都御所内にも清和天皇の母君が住まわれた「染殿」にちなむ「染殿井」という同じ名前の井戸があります。