日蓮宗本圀寺の元塔頭。 1602年(慶長7)日求が小早川秀秋(1582~1602)の菩提を弔うため、玉陽院を改めて開創したと伝わる。 秀秋の祭祀料として徳川家康が寺領100石を与えたのに因み、百石寺とも称する。 また、豊臣秀吉の姉日秀尼が、安土城内の秀頼旧邸を移し方丈とし、秀秋追善のために建立、100石を施入したとする説もある。
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管大臣神社
平等寺(因幡薬師)
この寺の起りは、「因幡堂縁起(いなばどうえんぎ)」(現東京国立博物館蔵)にくわしい。 すなわち、長徳3年(997)因幡国司橘行平が、任終って帰洛の途中、夢告によって因幡賀留津(いなばかるつ)の海中から一体の薬師如来像をひきあげ、仮堂に安置しておいたが、薬師は行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれをまつったという。 この霊験談はひろく親しまれ、歴代天皇はじめ一般庶民の深い信仰をうけ、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 しかし堂舎はたびたび火災にかかり寺地も次第に小さくなったが、明治初年再建の現本堂には、たび重なる火災にもかかわらずよく伝えられてきた本尊薬師如来立像を安置している。 藤原時代、一木作りの優品で重要文化財に指定されている。 嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つにかぞえられ、ことのほか信仰されている。 ◆由緒 長徳3年(997)因幡(現在の鳥取県)国司橘行平が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(いなばがるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保5年(1003)行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により平等寺と命名された。 なお、この寺の起こりは、「因幡堂縁起」(東京国立博物館蔵)に詳しく書かれている。 堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木作りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。
北菅大臣神社
空也寺
八坂神社大政所御旅所
綱敷行衛天満宮
佛願寺
本光寺
神明神社
当地は平安時代末期、近衛(このえ)天皇(在位一一四一~一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(ただみち)(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条(しじょう)内裏(だいり)」または「四条(しじょう)東洞(ひがしのとう)院内裡(いんだいり)」と言われた。 この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天(あま)照(てらす)大神(おおかみ)を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。 社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜,空に現れ都を騒がせた。 弓の名手であったという源(みなもとの)頼政(よりまさ)は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。 当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。 その後、天台宗の護国山(ごこくざん)立願寺(りつがんじ)円光院(えんこういん)という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎(えのき)神明(しんめい)」とも言われた。 また、当社には豊園(ほうえん)小学校内(現在の洛(らく)央(おう)小学校)に祀られていた文子(あやこ)天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。 祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。










