本覚寺

山号を佛性山(ぶっしょうざん)といい浄土宗の寺で、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。 ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃(しおがま)の第(だい)のあったところで、今この辺を本塩竃町という。 寺伝によれば、初め西八条の遍照心院(1名、大通院)内に将軍源実朝(さねとも)の後室・坊門信子(ぼうもんのぶこ)が貞応元年(1222)に創建したもので寺名は信子の法名本覚をとったものである。 その後、梅小路堀川に移転し、応仁の乱の荒廃のあと細川政元により高辻烏丸に再建せられ、末寺14を有する本山となった。 その後、後柏原天皇の勅願寺となったが、天正19年(1591)豊臣秀吉の命によってさらに今の地に移った。 境内墓地には八文字屋本の全盛期を築いた江戸中期の版元・八文字屋自笑(じしょう)の墓がある。

興正寺

真宗興正派の本山。文明年間(1469-87)佛光寺の14世経豪が本願寺8世の蓮如に帰依し、佛光寺を弟に譲り、名を蓮教と改め、山科に一宇を建立したのが起こり。 佛光寺の旧称によって興正寺(興隆正法寺)と称した。 その後、石山本願寺とともに寺地を移転し、1591年(天正19)現在地に移った。西本願寺の南隣。

市比賣神社

延暦14年(795)、藤原冬嗣が垣武天皇の命により、官営市場東市・西市の守護神として創建。中世には空也上人が神託により市屋道場を開創。 一遍上人が境内で踊り念仏を遊行。天正19年(1591)に現在地へ移転。現在も京都中央市場の守護神。 境内天之真名井の水は歴代天皇の産湯に用いられ、現在も名水として茶会等に用いられる。 また、皇族・公家が生後50日目には五十日餅を授かり、今も旧家では当社より餅を頂きお食べ初め発祥の神社、母神が童神を抱いた御神像は、慈愛に満ちた大変珍しい姿で、平安時代、花山天皇の作 御所守護の為、本殿は北向き(御所向かい)歴代皇后の崇敬篤く、女人守護の神社で特に女性厄除けに御利益がある。 ◆由緒 祭神は神大市比賣(かみおおいちひめ)命・多紀理比賣(たきりひめ)命・多岐都比賣(たきつひめ)命・市寸嶋比賣(いちきしまひめ)命・下光比賣(したてるひめ)命の五女神を祀る。  平安京が制定された翌年の延暦14年(795)東西市(常設市場)の守護神として七条堀河の地に創建され、天正19年(1591)に現在地に移された。 皇族誕生の際には、境内の「天之真名井(あまのまない)」の水を産湯に用い、また、平安時代より、生後50日目の子供に当社で「五十日百日餅」を授ける風習がある。  安徳天皇の記録を初め、花山院家・足利家歴代の史記にも見られ、現在の「お食初め」発祥の神社といわれる。 秘蔵の女神像は平安時代の作で、母神が童神を抱いた慈愛に満ちた大変珍しい姿であり、創建以来歴代皇后の信仰を集め、特に女性の「厄除け」に神徳が高い。

上徳寺 (世継地蔵)

塩竈山(えんそうざん)と号し、浄土宗に属する。 寺伝によれば、慶長八年(1603)に、徳川家康によって、上徳院殿(阿茶の局)が開基となり、伝誉蘇生(でんよそせい)上人を開山に招じて建立した寺といわれる。寺内に泰栄院の宝筐院塔がある。 以後、度重なる災火により、堂宇、塔頭は焼失し、現在の諸堂は明治時代に再建されたものである。 本堂は、宝暦三年(1753)建立の永観堂の祖師堂を移築したものである。 堂内には、江州矢橋(やばせ)(滋賀県)の鞭崎(むちざき)八幡宮から移したといわれる阿弥陀如来像を安置している。 境内の地蔵堂は、明治四年(1871)に再建され、高さ二メートル余の石地蔵を安置している。 この地蔵は、「世継(よつぎ)地蔵」と呼ばれ、往古から、良い世継が授かる御利益があるとして遠近の人々の信仰を集めている。 また、境内には、江戸時代の冠句の唱導者・堀内(ほりうち)雲鼓(うんこ)(1728年没)の句碑及び墓がある。

文子天満宮

祭神として菅原道真を祀り、洛陽天満宮25社の一つに数えられている。 社伝によれば、大宰府(だざいふ)(福岡県)に左遷された道真は、延喜3年(903)59歳で没したが、没後、道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、「われを右近の馬場に祀れ」との道真の託宣を受けたという。 しかし、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊の自宅に小祠を建て道真を祀ったといわれている。 これが当社の起りで、北野天満宮の前身ともいわれている。 以後、天明、安政、元治の大火で類焼したが、その都度再建され、明治に至り、村社に列せられた。 現在の社殿は、大正7年(1918)に造営されたものである。 なお、毎年4月16日には、例祭がとり行われる。