惟喬神社(これたかじんじゃ)は、京都府京都市にある神社である。平安初期の皇族・惟喬親王を祭神とする。例祭は5月、秋祭は11月[通称]火焚祭。 幼少から聡明であった惟喬親王は、父の愛情も深く次の皇位を継ぐはずであったが、その当時の右大臣藤原良房の娘と文徳天皇の間に第四皇子・惟仁親王が生まれると、良房らの圧力により皇位を奪われ、都を後にした。伝承によると、惟喬親王は貞観九年(八六七)、現在の桟敷ヶ岳辺りに隠棲していたが、翌年雲ケ畑に迎えられ、現在の雲ケ畑出張所付近に造営された高雲宮に移り住み、そこで出家した。現在の高雲宮はこの宮に由来するものといわれている。 この神社は、臣下や村人たちが親王の徳を永遠に奉祀するために創建したという。京都や滋賀の山間部では、惟喬親王に対する信仰が強かったことの現れである。「拾遺都名所図絵」によると、親王が寵愛していた雌鳥がこの地で病死したため、ここに祠を建てたといい、この縁から「雌社」又は「雌鳥社」とも呼ばれている。
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志明院
当山は650年(白雉元年)役の行者が草創。 829年(天長6年)弘法大師が、淳和天皇の叡願により再興、本尊不動明王は淳和天皇の勅願に依り弘法大師の直作と伝えられ、根本中院本尊眼力不動明王は宇多天皇の勅願により菅原道真公一刀三礼の彫刻で以来皇室勅願所として崇敬深く、秘仏として即位に際し勅使を迎え開扉され、宝祚延長、万民安穩の祈願を籠めた。 日本最古不動明王顕現の神秘霊峯である。 皇室の崇敬の一因には鴨川の水源地である洞窟の湧水を敬い、水神を祀り、清浄な鴨川の用水を祈願したと伝わる。水の伝説として有名な歌舞伎十八番「鳴神」がある。 1831年(天保2年)失火により山門を除く殆んどが焼失の悲運にあったが本尊不動明王は災厄を免れた。 その後、熱心な信者により復興された。 市の天然記念物に指定されている境内のしゃくなげ林は4月下旬から5月上旬が見頃。 司馬遼太郎が好んだ山寺で、アニメ「もののけ姫」のタイトルもこの森から生まれたといわれている。
閑臥庵
黄檗宗。後水尾法皇が御信仰篤く、もと梶井常修院の宮の院邸を献上されたものである。 初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師を招いて1671年に開山した。 法皇より「閑臥庵」の勅号を賜り御所の勅願所とされた。 十干十二支九星を司る総守護神で、安倍晴明が開眼した北辰鎮宅霊符神が祀られている。 後水尾法皇ゆかりの品々や伊藤若冲の十二支版木、開山三百三十周年記念時に制作した砂曼荼羅など公開されている。 ◆由緒 山号を瑞芝山(ずいしざん)という黄檗宗(おうばくしゅう)の寺である。 後水尾上皇が鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)を貴船の奥の院より勧請せられ、隠元禅師(いんげんぜんし)の弟子である千呆和尚(せんがいおしょう)がこれを祀り、王城鎮護の祈祷道場として上皇みずから宸筆(しんぴつ)の額を寄せられた。これが当寺の起りといわれる。 この神は衆星守護をつかさどる神とされ、安倍晴明(あべのせいめい)の開眼と伝えられる。 また、上皇は庭前に桜を植えられたが、その後、咲きにおう花をご覧になって 霞みゆく松は夜ふかき山端(やまばた)の あけぼのいそぐ花の色かな と詠まれたので、それより桜は「あけぼの桜」と名付けられ、寺名も曙寺と呼ぶようになったという。 この桜は惜しくも大正14年(1925)に枯れはてて、現在の桜は近年の植え替えである。
法音寺
菩提樹山と号し、もと天台宗で現在は浄土宗西山派に属する。慈覚大師の創建と伝えられ、平安時代諸書にこの寺の名があらわれている。 しかし、応仁の乱の兵火にあって一たん焼失し、その後復興した。花山院天皇の勅願所となり、また西国三十三ヶ所霊場復興所の本山である。 本寺は左大文字の発祥地旧大北山村の菩提寺でもある。 毎年8月16日朝、本寺にて施設餓思会が行なわれ、その時使われた火が、左大文字の親火となって点火される。 大文字送火の起源や、その意味については諸説があって一定でないが、江戸時代のはじめより記録にあらわれ、お盆の精霊の送り火として毎年点火されてきた。 左大文字は、本寺を中心とした旧大北山村の人々によってうけつがれてきたのである。 うらよりも むらにいでぬるみちなれば これぞほとけの みちになるらん
岩戸落葉神社
神光院
放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、建保五年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。 寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。 以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。 明治11年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。 本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。 寺宝としては、仏眼曼荼羅図(ぶつげんまんだらず)(重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。