今宮神社

平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があったといわれる。 994年(正暦5)都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起りである。現在の社殿は1902年(明治35)の再建。 「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石は叩くと怒るともいわれ、撫でて軽くなれば願いが叶うとされる。四面仏石(現在は京都国立博物館に寄託)などが有名。 4月第2日曜のやすらい祭は京の三大奇祭の一つ。 徳川五代将軍網吉の生母 桂昌院の氏神社として、良縁開運「玉の輿」のご利益を願う人で賑う。 ◆由緒 大国主命・事代主命・奇稲田姫命の三柱をまつる神社で正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病除のために御霊会を修せられ長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。 本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞鳴命を祀る。 今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である。 なお、4月の第2日曜日に当社で行う「安良居祭」は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。

大徳寺

臨済宗大徳寺派の大本山で龍宝山と号する。 鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超が開創。室町時代には応仁の乱で荒廃したが、一休和尚が復興。桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の葬儀を営み、信長の菩提をとむらうために総見院を建立併せて寺領を寄進、それを契機に戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めた。 勅使門から三門、仏殿、法堂(いずれも重文)、方丈(国宝)と南北に並び、その他いわゆる七堂伽藍が完備する。千利休によって増築された三門二階部分を金毛閣と称し、利休の像を安置したことから秀吉の怒りをかい利休自決の原因となった。 本坊の方丈庭園(特別名勝・史跡)は江戸時代初期を代表する枯山水。方丈の正面に聚楽第の遺構と伝える唐門(国宝)がある。什宝には牧谿筆観音猿鶴図(国宝)、絹本着色大燈国師頂相(国宝)他墨跡多数が残されている。(10月第2日曜日公開)

等持院

山号を万年山といい、もと仁和寺の一院であったが、南北朝時代の暦応4年(興国2年・1341)に足利尊氏が夢窓国師を開山として中興し、三条高倉の等持寺の別院とした。 延文3年(正平13年・1358)尊氏の歿後この寺に葬り、その法名をとって等持院と名づけ、のち、等持寺を合併して臨済宗天竜寺派に属するようになった。 足利氏の菩提所として堂塔伽藍は衣笠山麓に威容を誇ったが、長禄年間(1457~60)以来、しばしば火災にあって荒廃し、現在の建物は江戸・文政年間(1818~30)の建立である。 方丈は、元和2年(1616)福島正則が建立した妙心寺海福院の方丈を移建したものと伝えられ、霊光殿には尊氏の念持仏といわれる利運地蔵像を安置し、左右壇上には足利各将軍と徳川家康の衣冠等身の木像を安置する。 境内には尊氏の墓と伝える高さ5尺の宝筐印塔があり、芙蓉池畔の清蓮亭茶室及び夢窓国師作庭と伝える池泉回遊式庭園などがある。 ◆由緒 暦応4年(1341)のこと、足利尊氏将軍が、天龍寺の夢窓国師にお願いして、衣笠山の南麓に創建されたのが、この等持院である。義満・義政両将軍のような金閣・銀閣で有名な人達が、全力を尽くして立派にされた禅宗十刹の筆頭寺院であり、更に、尊氏・義詮将軍当時の幕府の地の近くにあった等持寺もこちらに移されて、足利将軍家の菩提所となったものである。 応仁の乱などの戦乱に、見回れたが、豊太閤も秀頼に建て直させたほど、この寺を重んじられたのである。その後も移り変わりはあるが、等持院が皆様に、足利十五代、二百三十余年の歴史を語るだけの貴重な文化財が、今なお充分に保存されている。 ◆方丈 現在の方丈(本堂)は元和2年(1616)福島正則が妙心寺塔頭海福院から移築された古逢築で、南庭をひかえた広縁は.静かに歩むと快い鶯張りの音が心よくひびいて、一足ごとに心にしみ入るようである。方丈の襖絵は、狩野興以の作で明治維新当時一部損壊の苦難をなめ、更に等持院撮影所が等持院北町(等持院の境内)に出来、そのロケに使用されたため、かなり破損されたが近年修復され、年一回公開されている。 ◆庭園 この庭園は夢窓国師作として伝えられる三大名園の一つで、方丈の北庭は東の苑池・心字池(草書体の心の字をかたどつて作られた池庭)で幽邃であり、中ノ島には観音閣があったが、現在は礎石でその面影をしのぶことができる。半夏生(三白草)が咲く夏至の頃がこの庭の気分をよくあらわしている。一方書院から眺める西の庭は古い木立で区切られ、芙蓉の花を形どった庭園に花木をあしらい草木を配し、更に背景に衣笠山を借景にして、石組も変化に富んでいるのは、尊氏公百年忌の長録元年(1457)に復興した際、伽藍殿舎のなかに清漣亭が加えられていたことから義政好みとよばれるようになったことに由るものと思われる。また、さらに度重なる方丈の焼失が必然的に庭園の改造につながったのであろう。書院に坐して茶の香りを愛でながら眺めるこの庭を引き立てるのは、寒の頃から咲きはじめる有楽椿(侘助椿)、ついで春先に咲く馬酔木、初夏のさつき、七月頃からのくちなしの花、初秋の芙蓉の花が清漣亭の前庭として、そのはなやかさをあらわしている。 ◆清漣亭 方丈の北背、書院の東にあたる美しい林泉の西北の小高いところに茶室清漣亭がひっそりと落ちついた姿を見せ、控え目なわびしいたゝずまいを、衣笠山を背景に木立の間からのぞかせている。村田珠光や相阿弥らと茶道を興した義政好みに基づく清漣亭は、上段一畳を貴人床とする二畳台目の席で、この上段一畳に坐して眺める芙蓉池苑はまた格別である。当時、段上の背後にある櫛形の窓を開ければ、衣笠山の礪野ののびやかな姿が眺められたであろうとしのばれる。 ◆尊氏之墓 方丈北の庭の中央に尊氏の墓と伝えられる宝筐印塔がある。塔の台座は四面に立派な格狭間があり、宝瓶には蓮花を押した紋様があって、室町時代の形を示している。台座四面の正面に延文三年四月の文字がみられる。

原谷苑

原谷苑は金閣寺から北西の山間、原谷にある桜の名所で、例年 4月上旬から下旬までと、紅葉の時期の11月下旬~12月上旬に一般公開される。 苑内のさくらは20数種類で400本以上、紅しだれ桜が咲き出し、薄墨桜、染井吉野、メインの八重紅しだれ桜、黄桜、緑桜、菊桜、郷桜などが4月下旬まで順次咲き続けます。

平野神社

延暦13年(794)、桓武天皇の命によって当衣笠の地に御鎮祀。平安遷都に際し、御生母高野新笠姫をはじめ新進の大陸文化を導入した人々が平安の都づくりに優れた技術を用いた功績は多大であり、更に遷都後は外の護りとなったこと等に対して天皇の御親祭をみたもので、「延喜式」には皇太子みづから奉幣される定めになっている。 7372

源光庵

鷹峰山(ようほうざん)と号する曹洞宗の寺である。 当寺は、貞和2年(1346)大徳寺の徹翁義享(てつとうぎこう)によって創建され、当初臨済宗に属していたが、元禄7年(1694)加賀国(石川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)が再興し、曹洞宗に改められた。道白は、当時の曹洞宗の改革に努め、自ら復古道人と称した。 本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀る。廊下の天井は、鳥居元忠が自刃した時の伏見城の遺構と伝え、俗に「血天井」と呼ばれている。また、内部の丸窓は「悟りの窓」、角窓は「迷いの窓」と呼ばれ、いずれも仏教の真理を表わしている。 境内の「稚児井戸」は、創建の頃、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、いかなる旱にも涸れたことがないといわれ、現在も清水が湧き出ている。 ◆由緒 鷹峯山宝樹林源光庵と号し、今より六百五十余年前の貞和2年(1346)、臨済宗大本山大徳寺二代徹翁国師の開創によるものであるが、元禄7年(1694)加賀国大乗寺二十七代曹洞宗復古道人卍山(まんじさん)道白禅師が当寺に住持せられ、これより曹洞宗に改まったのである。 現在の本堂は元禄7年の創建で、間口11間半(21m)奥行7間(13m)加賀の住人静家居士の建立による。 本尊は釈迦牟尼仏、脇立迦葉尊者、阿難尊者を祀る。復古堂には開山卍山禅師の木像を安置し、その下に舎利を収む。 卍山禅師は学徳兼備の高僧で、曹洞宗道元禅師の正伝の仏法に復古された。 発願より42星霜の歳月を経て成就されたのである。 黄檗山鉄眼禅師の大蔵経刻版、東大寺公慶上人の大仏殿建立と共に、その事業の功績は三者並び称せらる。 本堂西安置の霊芝観世音は、開山禅師が天和元年(1681)の春、洛南補陀落山に於いて御感得の霊芝自然の観音像であり、百十一代後西天皇は殊の外尊崇篤く、宮中で御供養遊ばされたもので、世に広く信仰され、開運霊芝観世音と唱う。 境内には、宗統復古碑があり、又、道元禅師ご真筆の書画及び卍山廣録・宗統復古志・鷹峰聯邦系譜等の木版を保存している。 本堂内の血天井は伏見桃山城の遺物であり、慶長5年(1600)、徳川家康の忠臣鳥居彦右衛門元忠一党1800人が石田三成軍勢と交戦したが、武運拙く討死し、残る380人が自刃して相果てたときの恨跡である。 また、本堂には悟りの窓と名付けられた丸窓と、迷いの窓という角窓がある。 悟りの窓は円型に「禅と円通」の心を表し、角窓は人間の一生を象徴して「生老病死四苦八苦」を表している。 西の谷の稚児井は六百五十余年前よりの伝説あり。多くの人々を水飢饉より救ったと伝えられる。 ◆伏見桃山城遺構血天井 豊臣秀吉(慶長3年没)の死後、徳川家康は既に所領250万石、家康は天下の権を握ったも同様であった。慶長4年3月13日、家康は伏見桃山城に入った。ところが陸奥、会津若松にあって150万石をうけていた五大老の一人である上杉景勝が叛すとの情報が入り注進をうけた家康は慶長5年(1600)6月16日伏見城を出て会津へ向かった。このとき伏見城本丸に鳥居彦右衛門元忠、二ノ丸松平主殿頭家忠、松ノ丸に内藤弥次右衛門家長を留守居とした。 家康は元忠に、「わずかばかりの兵を残して行くが、伏見は要衝であるから頼むぞ」と云えば、元忠は「会津はなかなかの強敵です、一人でも多くの兵を行かれた方がよろしいと思います。伏見は私一人で結構です。もし伏見で変があっても誰も助けてはくれますまい。たとえ何万の兵を残されても結局は同じことです。」と云い「もし会津出兵中に変事がなければまたお顔を拝することが出来ましょう。しかし、事あればこれが永遠のお別れです。」この言葉が事実となってあらわれたのは、家康が江戸へ入り軍勢を整えていたときであった。 7月18日、伏見城守護の元忠のもとへ石田三成、増田長盛らが使者を立て、「伏見の城は太閤が築かれたもので徳川のものではない。早く城を出て大阪の秀頼へ忠をつくされては如何」と申し入れてきた。家康が江戸へ入ったのを見届けると三成は罪状十三ヶ条(家康は太閤の遺言にそむき秀頼をみすて政務を独裁している)を並べ諸方に奮起をうながしていた。集まる兵力9万3700余、家康をむかえうつ拠点として血祭りに伏見開城を迫ったのである。 元忠は「主君家康公は、会津へ出発の折り、固く城を守るべしと言い残しておかれた。どうして主君の命にそむけよう、かくなる上は城を枕に討ち死にする以外にない。」と拒絶した。これを聞くや翌19日夕刻、三成に加担する兵4万がひしひしと伏見城を包囲した。城兵わずかに1800人を数えるのみであった。 伏見城の攻略は10日余り続いた。7月末の夜ついに忍びの甲賀の者、内通し松ノ丸に火を放った。これに勢いを得た寄手(よせて)がどっと乱入。内藤家長55歳をもって戦死。松平家忠も45歳を一期に散り、部下将卆すべて切腹した。鳥居元忠戦い疲れて本丸玄関に腰をかけ息つぐところへ雑賀孫市(秀吉直属の鉄砲頭)が死体をふみ超え肉薄。これをみた元忠は「われは総大将鳥居彦右衛門なり、首を取って功名にせよ。」と叫び自ら腹をかき切った。ときに元忠62歳、ともに討ち死にした部下380人と云われる。 なお鳥居元忠の首は、大阪京橋口にさらされたが、元忠と交わりのあった京の呉服商佐野四郎右衛門が「さらし首とはあまりにむごい」と夜半に盗み出し智恩寺の墓に葬ったと云われる。 現在血の染まった天井は討ち死にした兵士の残せるもので床板を天井としたものである。その血板は本堂全域の天井にわたるが数と処に於て鮮明な足型、手型等の血跡があり、当時の悲惨さを物語っている。 当寺は開山卍山禅師と徳川家との密接な関係により、当寺本堂再建の際、伏見桃山城の床板の一部を移したもので、これら諸兵の菩提を弔って居り、現在文化財として維持している。

鹿苑寺(金閣寺)

北山と号する臨済宗相国寺派の別格本山で、足利義満が応永4年(1397)に営んだ山荘・北山殿を、その死後、禅寺に改め、義満の法号をとって鹿苑寺と名付けたものである。 金閣(舎利殿)は、宝形造り(ほうぎょうづくり)こけら葺きの山荘楼閣で、初層は藤原時代の寝殿造り風、第二層は鎌倉時代武家造りの仏間風、第三層は禅宗仏殿風の様式をとり、二層、三層とも漆塗の上に金箔を押してある。 昭和25年(1950)に焼失し、昭和30年(1955)に再建され、さらに昭和62年(1987)に金箔張替修理が行なわれた。 壮大な池泉回遊式庭園は、特別名勝に指定され、池の北方には、萩の違い棚と南天床柱で名高い茶室・夕佳亭(せっかてい)がある。

賀茂別雷神社(上賀茂神社)

上古この付近一帯に繁栄した賀茂氏が創祀した京都最古の神社である。ご祭神として賀茂 別雷神を祀る。賀茂伝説によれば賀茂氏の祖神建角身命の女玉依姫命(たまよりひめ)( ともに下鴨神社に奉祀)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神( わけいかづちのかみ・大自然を支配する神)が出現したと伝える。 平安奠都(てんと)(794)とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり、特に五穀豊穣 の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集め、全国雷神の中心となった。謡曲「賀茂」は この縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃えた曲である。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元年(810)以来、内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮とよばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられた。 社殿は21年毎に造営される慣例であったが中世以来中絶した。本殿(国宝)は流造神殿 の典型で権殿(国宝)とともに三間社流造、桧皮葺で文久3年(1863)の建築である。 この外社域にある中門、幣殿など40棟の建物の多くは寛永5年(1628)の造替で重 要文化財に指定されている。 毎年5月15日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており、当日は平安 朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰りひろげられる。さらに5月5日の競馬会(くらべう