斎宮神社

天照大神を祭神とする。 伊勢神宮に奉仕する斎宮が有栖川の辺に野宮を建て、精進潔斎をした旧跡と伝わる。 こじんまりとした神社で、厄除け開運・婦女子の血の道の守護などに御利益がある。

印空寺

その昔、俳人松尾芭蕉が「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んだといわれる広沢池の東200m、「一条山越通」交差点より西へ2軒目にあります。 元禄元年(1688)に印空上人が時の仁和寺門跡覚隆法親王より土地を賜り開山し、明治維新後の荒廃の時期を経て、平成3年(1991)に本堂、山門、庫裡の全てを一新、北山杉、桜、梅、幣辛夷(しでこぶし)、紅葉などが植えられ、作家の冨永航平氏が「二河白道」と名付けられた石庭を取り囲んでいます。 また、「葉書」の語源とされる樹齢300年、高さ15mの多羅葉(たらよう)の樹は京都市保存樹に指定されています。 当寺は印空上人(1692)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、時の仁和寺御門跡覚隆法親王猊下より広沢池近くの広大な寺領を賜り、元禄元年(1688)に建立したのが始まりとされます。その後、 中興了海上人(1663~1719)が住持し、寺勢は盛んになりました。 了海上人は土地の人に親しまれ、  ねんねせん子は了海坊にかます   了海坊がこわけりゃ、ちゃとねやれ という子守歌が伝えられています。 明治維新後は次第に荒廃の途を辿りましたが、昭和45年(1970)前住園空瑞元が晋山して寺の復興に努め、浄土宗開宗八百年記念の年、昭和49年(1974)に鐘楼を建立し、平成3年(1991)には檀信徒の協力を得て本堂、山門、庫裡を一新するとともに、境内も二河白道の石庭、北山老杉、梅、辛夷、桜、紅葉などを配し、歴史風土特別保存地区に相応しい山容が整いました。 本尊は阿弥陀知来。この像は地名より「山越の阿弥陀」と称されています。脇仏の観音・勢至の両菩薩像は昭和の人間国宝松久朋琳師の作品です。 本堂西側の仏聞には大黒天を杷っています。この像は明治4年(1871)東京遷都の際、宮中に祀られていたものがその大きさと重さの為に、京都に残されたもので、縁あって一世紀を経て当寺へ安んじられました。 本堂東側の仏間には西国三十三か所各霊場の本尊を安置し、その前には三体の仏像を祀っています。 向かって右側の宝珠観音菩薩立像も松久朋琳師の作で、了海上人遺愛の五色椿を用材としています。左隣の文殊菩薩像は松久宗琳師の作で、一部サルスベリの木を用いた珍しいものです。 左端の弥鞠菩薩立像は、今宿鼎山師の作で桧材が用いられています。

春日神社

平安初期、淳和天皇が淳和院に奈良春日大社よりご分霊を迎えておまつりされたことが起こり。 神前の霊石で皇女の疱瘡が治り、病気平癒の神として崇められたという。江戸期にも歴代天皇が健康祈願をされた。 また境内の摂社、還来(もどろき)神社は旅行安全の神として有名。 10月第2土、日曜に「春日祭」。 無病息災、五穀豊穣を感謝する祭で、日曜日には重さ2トンのみこし2基が出御。みこしを中心に剣鉾5基とともに総勢1000名が区内を巡行。 創建:833(天長10)年2月28日 平安時代 ◆ご祭神  第一殿 建御賀豆智命(たけみかつちのみこと)  第二殿 伊波比主命(いはぬしのみこと)  第三殿 天児屋根命(あめのこやねのみこと)  第四殿 比売神(ひめがみ) ◆勧請  平安時代の初期、天長十年(西暦833年)二月二十八日 淳和天皇が仁明天皇に皇位を譲られ、淳和院(西院)にお移りになりました。この時、勅命により奈良の春日大社よりご分霊をお迎えし、守護神とされたのにはじまります。 ◆信仰  淳和天皇の皇女、崇子(たかこ)内親王が疱瘡(ほうそう・天然痘)に悩まれたとき、神前の霊石が疱瘡を生じ、内親王の悩みに代わってより以後、皇室から病気平癒や災難厄除けの守護の神と崇められ、仁明天皇(承和五年七月)、後桃園天皇(安永三年七月)、仁孝天皇(寛政十二年二月)、敏宮(天保元年十二月)、和宮(弘化三年閏五月)、孝明天皇(慶応二年十二月)等、ご祈祷を命ぜられてまいりました。  現在でも皇室の崇敬厚く、全国からご祈祷や守札を受ける参拝者があとをたちません。 ◆病気平癒の霊石「疱瘡石」(ほうそういし)  崇子内親王の代わりに疱瘡を生じて、たちどころに病を治したといわれる「霊石」です。その後「疱瘡石」と呼ばれて信仰を集め、世の人々は病の平癒を願ってこの石を拝するようになりました。また都に疫病がはやる前には必ずこの石の表面がぬれたそうです。普段は祈祷殿に納めてありますが、毎月一日十一日、十五日の月次祭の日には本殿内で公開致しております。 境内社 還来(もどろき)神社 旅行安全・還来成就の神 ◆梛石(なぎいし)  神前に「梛石」と呼ばれる神石があります。これを旅行者が往きに還りに撫でて祈願し、無事息災、還来成就をなす習慣があります。また、病弱者はこの石を撫でたその手で患部を撫で、健康の回復を祈るところから、後世「撫石(なでいし)」とも呼ばれるようになりました。 ◆還来神社 もどろき じんじゃ 淳和天皇皇后正子内親王・淳和天皇御母旅子・正子内親王御母橘嘉智子を祭神として祀っています。 貞観16年(874)4月27日淳和院御所が炎上の際、類焼をまぬがれた洞裏院に正子内親王が無事お還りになった故事から還来の大神と称えられる。旅行安全・還来成就の守り神として尊崇を集めています。現在も、天皇皇后両陛下の海外御訪問に際し御守が献上される。 還来神社では、古来から、旅路道中安全を祈って「わらじ」を奉納する習慣がある。

大龍寺(うすさま堂)

1586年(天正14)都に疫病が流行し、然誉上人がうすさま明王の法力にすがり建立。 「うすさま堂」は後年、信者が材木を持ち寄り建立した。 もと中京区の裏寺町にあって花街のきれいどころのお参りが多かったが、1977年(昭和52)に現在地に移転。浄土宗。 トイレの守り神様でもある。 建立:うすさま堂・1804(文化元)年10月24日移築

福王子神社(ふこっさん)

第58代光考天皇の后で、宇多天皇の母君班子女王を祀る。 900年(昌泰3)、68歳で崩御された際の陵墓の地と伝わる。 神社名は班子女王が多くの皇子皇女を生んだ事に由来する。 仁和寺の守護神であるとともに近隣旧6ヶ村の氏神。 江戸時代徳川三代将軍家光公により創建された現在の本殿は、一間社春日造、屋根は珍しい木賊(とくさ)葺で、拝殿・鳥居・棟札及び石燈籠弐基とともに国の重要文化財に指定される。 本殿の左には丹波国から都の宮中に氷を運ぶ道中に息絶えた役夫の霊を慰める「夫荒社」と年々大きくなっていると言い伝えられる「さざれ石」がある。 他に、拝殿正面に掲げられていた鳴滝砥石の額は一見の価値あり。

猿田彦神社(山ノ内庚申)

祭神、猿田彦大神。平安期、最澄が座禅のために霊窟を求めて探して歩いていたところ、猿田彦神が現れてこの地を示ししため、座禅石の傍らに猿田彦神を祀ったことを創祀の始めと伝える。 その後嵯峨天皇が行幸の際には猿田彦が道案内をしたため、天皇は社殿を建立したといわれる。 中風・神経痛・腰痛などの病気封じの信仰がある。 玄関、勝手口、金庫などにつるす盗難除け左なわや手芸上達を願う招福布猿が授与される。 京洛三庚申の一社に数えられている。

今宮神社

祭神は素戔嗚命。もと「祇花園(ぎはなぞの)社」又は「花園社」と称した。 1015年、三条天皇の長和4年夏、疫病が流行した折、託宣により創祀された(『百錬抄』)。 1644(寛永21年)に仁和寺門跡・覚深法親王の御本領により本殿・拝殿及び末社が造営された。

児神社

広沢池灯籠流しが行われる。 毎年8月16日7時より催されるお盆の精霊送りの行事。広沢池の西南にある児神社(ちごじんじゃ)で受付。 回向(塔婆施餓鬼供養)をした後、広沢池一面に五色の流し灯籠を水に浮かべる。 鳥居形の送り火とのコントラストはまさしく幽玄の世界そのものである。

遍照寺

廣澤山(ひろさわざん)と号する真言宗御室派の準別格本山である。 当寺は、永祚元年(989)宇多(うた)天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓に創建したものである。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当寺はその根本道場として名声を高めた。 かつては広大な寺域と荘厳な伽藍を有したと伝えられるが、14世紀の後宇多天皇の頃からしだいに荒廃した。 寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名跡を伝えた。 本尊の木造十一面観音立像及び木造不動明王座像は、いずれも一木調成の創建時の遺像で、重要文化財に指定されている。