麟祥院

妙心寺塔頭で、本坊の北方に位置する。 徳川家光が創建。方丈に海北友雪筆の水墨襖絵雲龍図がある。 特別公開時のみ。 1634年(寛永11)の創建で、春日局を開基、碧翁愚完を開祖とする。 春日局は明智光秀の武将斉藤利三の娘でお福と称し、稲葉正成の妻となり、徳川家光の乳母となり、家光が将軍となると大奥第一の権威を誇った。 霊屋内陣に安置する春日局木像は小堀遠州作と伝える。 墓地には稲葉家の墓のほか、新陰流2世柳生石舟斎宗厳の孫、3世兵庫助長厳の墓もある

弘源寺

臨済宗・天龍寺塔頭。 永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川持之が、天龍寺開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建。 当時は広大な寺領を有したが、幾度かの火災に遭遇し、明治17年に末庵である維北軒と合寺した。 枯山水の「虎嘯の庭」、毘沙門天(重要文化財)を祀る毘沙門堂、竹内栖鳳とその一門(上村松園・西山翠嶂・徳岡神泉・小野竹喬ほか)の作品、また小倉山墓地には向井去来の墓と西行法師ゆかりの井戸などがある。 特別公開時のみ。

厭離庵

臨済宗天龍寺派の寺院。藤原定家の小倉山荘跡で、定家が百人一首を撰したところという。 のち荒廃し、江戸中期に令泉家が修復。霊元法皇から厭離庵の号を賜わる。 その後再び衰え、明治に入り復興。 書院のほか、茶席時雨亭、定家塚などがある。 (非公開)明治四十三年白木屋社長大村彦太郎氏が佛堂と庫裡を建立され山岡鉄舟氏の娘素心尼が住職され以後尼寺となる。 ■定家卿 見渡せは     花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの     秋のタ暮 駒とめて     袖うち払ふかげもなし 佐野のわたりの     雪の夕暮 鎌倉時代の歌聖、定家卿は応保二年(1162年)に生れ、仁治二年(1241年)八十歳にて歿す。父は俊成卿、兄は寂蓮法師、子は為家卿といづれも優れた歌人一族である。「新古今集」の撰者の一人として、また「小倉百人一首新勅撰和歌集」の撰者として、歌集「拾遺愚草三巻」に自撰の歌3652首が収められている。 定家は京極家、為家は冷泉家、孫の為氏は二条家、そして「十六夜日記」を誌した阿仏尼は為家卿の後妻にあたり、その子為相のために鎌倉へ直訴の道中誌を残している。 ■時雨亭 小倉山しくれの頃の     朝な朝な 昨日はうすき     四方の紅葉葉 六世常覚尼が茶道を志し、定家卿の御歌に因んで、定家卿の山荘「時雨亭」再興の意をふまえて、大正十二年茶席「時雨亭」は四帖向切、床は枡床、塗りがまち、書院窓に文机あり、桂離宮より模す。天井はよしの化粧天井で、広縁は苔寺の湘南亭を模し、屋根裏は傘を想わせ、情趣ゆたかである。 ■本堂 本尊上宮太子御作の如意輪観音、そして開山霊源禅師、西行法師、家隆卿、貫之卿の木像と定家卿、為家卿、為相卿の位牌を安置す。 ジェーン台風で倒壊した本堂は、「時雨亭」に於て茶会を催し、その浄財にて昭和28年に、これも岡田永斉の手によって再建される。 天井に描かれた"飛天"は東京芸術大学名誉教授西村公朝先生の筆。当時裏千家出入の数寄屋大工岡田永斉によって建てられる。 ■庭園 今は一般公開を断りて苔むす庭となり、七百余年、"柳の井"は今も清く湧き出ている。園内に映える楓樹は新緑、紅葉各々の季節を彩りて、京の名庭に数えられる。定家卿を偲ぶ五輸の塔、"定家塚"は静寂さをたたえている、その他楠の化石の橋や織部灯籠などが点在し、歌づくりの風情を漂よわせている。 藤原定家  小倉百人一首・編さんの庵 皇都西嵯峨、小倉山の麓なる厭離庵は京極黄門定家卿(藤原定家)が住みし山荘の旧跡で、小倉百人一首を編さんした処である。 その后、久しく荒廃せしを冷泉家が修復し、霊元法皇より、「厭離庵」の寺号を賜り、安永(1772年)より、臨済宗天龍寺派となり、開山は白隠禅師の高弟霊源禅師なり、男僧四代続いたが明治維新后、再び荒れ、明治43年、貴族院議員白木屋社長大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立、山岡鉄舟の娘素心尼が住職に就き、それ以后尼寺となる。 平成18年9月、男僧、玄果入山。

西明寺

槙尾(まきお)山と号し、真言宗大覚寺派の準別格本山である。 弘法大師の弟子智泉が開基し、鎌倉時代建治年中(1275~1277)和泉国槙尾山の自証上人が中興した。 その後衰微し現在の堂舎は元禄12年(1699)徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院と伝える清涼式釈迦像である。 この地を槙尾といい、上流の栂尾、下流の高雄とあわせ世に三尾と称し、いづれも紅葉の名所として知られる。 ◆由緒 西明寺は、古義真言宗に属し槇尾山と号す。高雄(尾)山・神護寺、栂尾山・高山寺と共に三尾の名刹の一つとして知られる。 古来から、清滝川のせせらぎと共に、春の桜、つつじ、初夏の新緑、秋の紅葉、冬の雪景色と、四季を通じて豊かな自然を現している。 天長年間(824~834)に弘法大師の高弟智泉大徳が神護寺の別院として創建したのに始まると伝える。 荒廃後、建治年間(1275~1278)に和泉国槇尾山寺の我法自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔、鎮守等が建てられた。また正応3年(1290)に平等心王院の号を後宇多法皇より命名賜り、神護寺より独立した。 さらに、永禄年間(1558~70)に兵火にあって焼亡したが、慶長7年(1602)に明忍律師により再興された。 現在の本堂は、元禄13年(1700)に桂昌院の寄進により再建されたものである。堂内には、唐様須弥壇上の本尊釈迦如来像(重要文化財)を始め、多数の仏像が安置されている。 ◆釈迦如来像 本堂正面の須弥壇上の厨子内に安置されている本尊で、鎌倉時代に仏師運慶によって彫られた立像である。清涼寺式釈迦如来像で生前の釈迦如来の面影を伝えていると云われており、重要文化財となっている。釈迦如来は二千五百年前に印度国に生まれ、仏教を創説された。その教えは、「万物は因、緑、果の法に従う。因、縁、果の法を見る時、正智を生ずる。正智を生ずる時、正しい生活が行われる。正しい生活が行われる時、苦しみ、悩みから救われ、ここに平安の光明が実現する。」と説いている。 ◆千手観世音菩薩像 本堂の脇陣に安置されており、平安時代に彫られ、重要文化財となっている。頭上に十面を戴き、宝冠をかぶり、合掌する真手を含め四十二手の千手観世音菩薩像である。細面で鼻筋が通った繊細な顔立ちをした立像である。慈悲の力を持って衆生の苦しみを救うと信仰されている。 ◆愛染明王像 本堂の脇陣に安置されており、鎌倉時代後期に慶派に連なる仏師によって彫られた明王像である。五鈷を戴く獅子冠を頭上に乗せ、三目を瞋らせ、開口して牙歯と舌先を現わし、六臂の各手に法具や弓箭等を執って坐っている、我宝自性上人の念持本尊で、愛の力を授かるとして古来から多くの人々に拝まれてきた。 ◆本堂 元禄十三年(1700)に五代将軍徳川綱吉の生母母桂昌院の寄進により再建された。桁行七間、梁行四間で、内部は梁行に三分されている。中央間が内陣で、後方に四天柱を建て、逆蓮擬宝珠付きの唐様須弥壇には厨子が奉安されている。両横の脇陣が外陣の役割を果たしており、真言宗寺院の本堂としては特異な平面である点に特色がみられる。正面入口の梁上に「霊山鷲心」の額が掲げられている。 ◆客殿 本堂の左方に接近して建ち、本堂左後方と短い渡廊下で結ばれている。造営は本堂より古く、江戸時代前期に移築された。当時は食堂と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用されていた。前列二室、後列三室からなり、前列南室には、慶長および元和年間に三度にわたって制定された九ケ条からなる「平等心王院僧制」木札が掲げられている。 ◆表門 一間薬医門で、本堂と同じ元禄十三年(1700)の造営になり、西明寺の元禄造営の一連の建造物として貴重である。 ◆智泉大徳 延暦八年(789)に讃岐国に生れ、姓は菅原氏、母は阿刀氏で弘法大師の甥にあたる。九歳の時、弘法大師に従い弟子となり、大師をして「密教の事は智泉に任す。」と云われるほど聡明であった。天長二年(825)、病にて高野山で寂す。弘法大師は痛く之を慟哭し、自ら文を草したと云われる。 ◆我宝自性上人 姓は詳ならず、字は自性で、世に自性上人と尊称された。徳行高邁、博く顕密の学に通じ、学徒雲集せり。上人の教義として「生活に直結する信仰」が唱導された。即ち、花を供えては「忍耐」の徳を養い、線香を供えては「努力・精進」の徳を省み、水を供えては自他共に潤う「施し」の徳を、御飯を供えては精神の食糧たる「禅定静心」の徳を養うのが肝要である。上人の和歌に、「白露のおのが姿をそのままに紅葉にわけば紅の玉」(一座行法肝要記)がある。 ◆明忍律師 天正四年(1576)に京都に生れ、姓は中原氏、字は俊正、少内記康雄の次子である。七歳の時、高雄山の晋海僧正に従い弟子となり、内外の諸典を学んだ。慶長十五年(1610)、対馬にて病を得て寂す。律師の「自誓得戒の教え」に桂昌院帰依されて、現在の本堂を寄進された。その教えによれば、誠心を持って神仏の前で誓を立てれば、神仏の加護する力と自分の努力する力とで始めて生活に規律(戒)が立ってくるのである。

宝筐院

善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の寺である。 当寺は、平安時代に白河天皇により創建され、当初、善入寺と称した。 南北朝時代に夢窓疎石の高弟、黙庵(もくあん)が入寺し、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を得て、伽藍が復興された。 更に、義詮の没後、その院号宝筐院に因んで現在の寺名に改められた。 以後、足利氏歴代の崇敬を得て栄えたが、室町幕府の衰亡と共に寺も衰微していった。 現在の堂宇は、明治時代以降に再興されたもので、本堂には、十一面千手観世音菩薩を安置している。 境内には、貞和四年(正平三年、1348)、四条畷の合戦で戦死した楠木正行(まさつら)(正成の子)の首塚と伝えられる五輪石塔及び義詮の墓と伝えられる三層石塔がある。 ◆由緒 平安時代に白河天皇(1053~1129)により建てられ、善入寺となづけられた。 南北朝時代になり夢窓国師の高弟の黙庵周諭禅師が入寺し、衰退していた寺を復興して中興開山となり、この善入寺にあって門弟の教化を盛んにし、これ以後は臨済宗の寺となった。 室町幕府の二代将軍足利義詮は、黙庵に帰依し、師のために善入寺の伽藍整備に力をいれた。 東から西へ総門・山門・仏殿が一列に建ち、山門・仏殿間の通路を挟んで北に庫裏、南に禅堂が建ち、仏殿の北に方丈、南に寮舎が建っていた。 寺の位置は『応永均命図』(室町時代前期の嵯峨地域寺院配置図)によると現在地と変わらない。 貞治六年(1367)、義詮が没する(38歳)と、善入寺はその菩提寺となり、八代将軍義政の代になって義詮の院号の宝筐院に因み寺名は宝筐院と改められた。備中・周防などに寺領があり、足利幕府歴代の保護もあって寺も隆盛であったが、応仁の乱以後は経済的に困窮した寺は次第に衰微した。 江戸時代には天竜寺末寺の小院で、伽藍も客殿と庫裏の二棟のみとなり、幕末には廃寺となったが、五十数年をへて復興された。 ◆小楠公首塚由来 正平三年・貞和四年(1348)正月、河内の国の南朝の武将楠木正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死にし(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後にこの話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように頼んだという。 明治24年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑『欽忠碑」を建てた。 ◆伽藍復興 楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行われた。新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦をもちい小楠公ゆかりの寺であることをしめした。 大正6年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、宝筐院の復興がなった。 現在は臨済宗の単立寺院。 ◆楠木正行・足利義詮墓所 石の柵に囲まれて二基の石塔が立つ。五輸塔は楠木正行の首塚(首だけを葬ったから)、三層石塔は足利義詮の墓とつたえる。当院再興の時に残されていた石塔はこの二基のみであり、その他の墓は不明。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎の揮毫。「精忠」は最も優れた忠。「辞徳」は一片の徳、即ち敵将を褒めたたえその傍らに自分の骨を埋めさせたのは徳のある行いだが、義詮の徳全体からみれば小片にすぎない、という意味で義詮の徳の大きさを褒めた言葉。 ◆庭園 書院から本堂の周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花木からなる回遊式の庭園が広がり、晩秋初冬にはみごとな紅葉をみせる。

梅宮大社

祭神は酒解神(さかどけのかみ)、大若子神(おおわくこのかみ)、小若子神(こわくこのかみ)、酒解子神(さかどけみこのかみ)の四座、式内神で二十二社に列し、もと官幣中社であった。 橘諸兄(もろえ)の母縣犬養三千代(あがたのいぬがいのみちよ)の創建といわれ、古くは橘氏の氏神であった。 酒解神(大山祇神)(おおやまつのかみ)の御子酒解子神(木花咲耶姫命)(このはなさくやひめのみこと)は大若子神(瓊瓊杵尊)(ににぎのみこと)と一夜の契りでやがて小若子神(彦火火出見尊)(ひこほほでみのみこと)をお生みになった。 そこで姫は歓喜して狭名田(さなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造り、これを飲まれたという神話から当社は安産と造酒の神として古くから有名である。 現在本殿、拝殿、幣殿、廻廊、中門などがあるが、これらは元禄13年(1700)の再建になるものである。境内には大堰川の水がひかれ、池辺にはかきつばたや花菖蒲が多くあり、西方の梅林も美しい。 また、境内の砂は安産の民間信仰があり「またげ石」は、これを跨げば子供が授かると伝えられる。

御髪神社

小倉池のふもと(小倉池の前)に鎮座。日本唯一理容・美容(化粧品・洗髪剤・育毛剤・カツラ等)にたずさわる業の始祖を祭神とする神社で、藤原鎌足の末孫、藤原采女亮政之(うねめのすけまさゆき)公を祀る。 亀山天皇の御代(1259~1274)、宮中の宝物係であった藤原基晴卿が、宝物紛失の責任をとり、諸国行脚し文永5年に下関に居を構えた。 その三男の政之公が生計を助けるため髪結職を始めたのが髪結業の始祖とされ、後に彼らが仕えた亀山天皇の御陵に近いこの地に建立された。 現在でも理髪業者の信仰が篤く、境内には髪を納祭する髪塚がある。

法金剛院

五位山(ごいさん)と号する律宗の寺である。 この地は、平安時代の初め、右大臣清原夏野(きよはらのなつの)が山荘を営んだところで、夏野の没後、寺に改めて双丘寺(ならびがおかでら)と称したのが当寺の起りである。 その後、寺は次第に荒廃したが、大治5年(1130)鳥羽上皇の中宮待賢門院(たいけんもんいん)が再興し、寺名を法金剛院と改めた。 本堂は、元和4年(1618)に再建されたもので、堂内には、本尊の阿弥陀如来坐像、十一面観音坐像、僧形(そうぎょう)文殊坐像(いずれも重要文化財)などを安置している。 また、寺宝としては、蓮華式香炉(重要文化財)などの工芸品、書画などを多数蔵している。 庭園(特別名勝)は、昭和45年(1970)に発掘復原されたもので、池の北の「青女(せいじょ)の滝」など、平安時代の風情を今に伝えている。 また、背後の山は、山頂からの眺めがすばらしいので、仁明天皇が山に従五位下の位を授けたことから五位山と呼ばれている。

化野念仏寺

華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺である。 化野は古来より鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞(まくらことば)に使われている。 寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅(まんだら)山寄りを胎蔵界と見立てて、千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。 当初は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになった。 正徳2年(1712)に黒田如水の外孫の寂道(じゃくどう)が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院(さい)の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。 なお、毎年8月23、24日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸寺念仏寺と称し浄土宗に属する。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされている。現在の本堂は・庫裡は、正徳2年(1712)11月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである。 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀している。この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。 石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語・・・ もどり児が河原の石をとりあつめもれにて廻向の塔をつむ 一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・ とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原という。 あだし野は化野と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。 兼好法師の徒然草に あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ としるされ、 式子内親王は、 暮るる間も 待つべき世かはあだし野の 松風の露に嵐たつなり と歌い、 西行法師も 誰とても 留るべきかはあだし野の 草の葉毎にすがる白露 と人の命のはかなさを詠んでいる。 竹林と多聞塀を背景に茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見ることもなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。 [千灯供養] 毎年八月二十三日、二十四日の地蔵盆の夕刻、境内にまつられた多くの無縁仏にろうそくをお供えする行事です。平安から鎌倉時代にかけ、繰り返された戦乱や疫病で、人の命ははかなく、この地は東の鳥部野、北の蓮台野と共に、西の化野(あだしの)として風葬の地であったと云われています。 人々によって、死者の供養の為に少しずつ石仏がまつられましたが、時代の変化に伴い地中に埋もれていったとされています。 一帯に埋没、散乱した石仏は明治時代中頃に境内に集められ、現在の姿にまつられました。以後、信者の方々や地元の人々の協力により、供養として蝋燭が供えられたことが千灯供養の始まりといわれています。 これら多くの石仏は、今でこそ無縁仏となっていますが、時代を遡っていけば、私達のご先祖様もいらっしゃるかもしれません。そういう意味では決して私達とは無縁ではないのです。先に述べた化野の歴史的背景において、長い時代を経て再びおまつりされた石仏に、きっと何かのご縁があるものと思ってろうそくをお供えください。