愛宕念仏寺

天台宗。稱徳天皇開基。もとは東山の地に奈良時代に建てられた古刹。 平安初期に鴨川の洪水で堂宇が流失。天台の僧「千観内供」が再興し,等覚山愛宕院と号し、比叡山の末寺となる。 本堂は鎌倉中期の建立で重文。大正時代に奥嵯峨の地に移築された。 内部の天井は繊細な小組格天井で、さらに本尊の位置を二重おりあげ格天井にするなど、他では見られない鎌倉様式の美しい曲線を今にとどめている。 本尊は「厄除け千手観音」。 地蔵堂には、霊験あらたかな火之要慎のお札で知られるあたご本地仏「火除地蔵菩薩」が祭られている。 境内には参拝者の手によって彫られた、1,200躰の石造の羅漢さんが表情豊かに並び、訪れる人の心を和ませてくれています。建立:建立奈良時代、再興延喜時代・毎月24日に法要と住職の法話がある。 当山は寺伝によりますと、聖徳太子の発願によって、愛宕郡(現在の京都市内)に愛宕寺を建立されたとあります。また、江戸期の資料には稱徳(しょうとく)天皇(765~769)が開基とあることなどから、建立は奈良時代以前に建てられた古刹であります。 平安朝の初め、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、延喜の初め鴨川の洪水で堂宇が流失しました。この名刹の再興を発願された人皇60代醍醐天皇は、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大法師千観内供(あじゃりでんとうだいほつしせんかんないぐ:918~984、内供とは皇居に参内を許される僧位)に命じて七堂伽藍の大寺を再興させ、等覚山愛宕院(とうかくざんおたぎいん)といい爾来(じらい)、天台宗比叡山の末寺になりました。 千観は、中納言橘頼顕卿(ちゅうなごんたちばなよりあききよう)の子として生まれました。伝記によりますと、両親は子なきを悲しみ清水寺本尊の千手観音に昼夜参籠して祈願したところ、ある夜、母は観音から蓮華一茎を授かる夢をみて懐妊したとあります。このことから、千手観音の千と観の二字をいただき、幼名を千観丸といいました。 千観は12才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕蜜(けんみつ)の奥旨を修めました。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。 等学山と号し、天台宗延暦寺派に属する。寺伝によれば、当寺は、聖徳太子の創建といわれ、その後延喜11年(911)醍醐天皇の勅願により、比叡山の僧、千観阿闍梨によって中興されたと伝えられている。 当初は、東山区松原通大和大路東射弓矢町の地にあったが、大正11年(1922)にこの地に移築された。 本堂(重要文化財)は、方5間、単層、入母屋造で、度々移築され、補修を加えられているが、鎌倉時代中期の和様建築の代表的遺構である。堂内には、本尊十一面千手観音像や二十八部衆群像などを安置するが、特に、木造千観内供坐像(重要文化財)は、口を開いて念仏唱名する千観の姿をあらわした、鎌倉時代の肖像彫刻の逸品である。また、地蔵堂には、愛宕山の本地仏の火除け地蔵菩薩坐像を安置している。 境内には、永正9年(1512)の造刻銘のある石塔婆をはじめ、1200体に及ぶ羅漢像が建ち並んでいる。 ◆由緒 当山は称徳天皇(764~770)の開基により山城国愛宕郡に愛宕寺として建立されました。 平安朝の初めには、真言宗教王護国寺(東寺)に属していましたが、鴨川の洪水により堂宇が流失したため、天台宗の僧、阿闍梨伝燈大師千観内供(918~984)によって七堂伽藍の大寺を再興されました。これより天台宗比叡山の末寺となり等覚山愛宕院と号しました。 千観は中納言橘頼顕卿の子として生まれました。両親は信仰の厚かった千手観音にあやかり千と観の二字をいただき、幼名を千観丸と名づけました。  千観は十二才で比叡山に登り、運照内供の弟子となって苦行し顕密の奥旨を修めました。内供とは皇居に参内を許される僧位をいいます。また生涯仏名を唱えて絶えることがなかったので、世に念仏上人ともいわれ、当寺を愛宕念仏寺と称するようになりました。 今に伝わる千観内供像は、口を開け念仏を唱えている姿に造られており、鎌倉時代の彩色寄せ木造りの坐像で肖像彫刻として優れていることから国指定の重要文化財になっています。 当山は、もと東山の地、松原通り弓矢町にありましたが、大正11年堂宇の保存とあたご山との信仰的な関係から、三ケ年をかけて当地に移築されました。 平安時代の本堂は後に兵火にあいましたので、再び鎌倉中期に建てられ現在に続いています。方五間、単層入母屋造り、本瓦茸の簡素な和様建築です。 内部の天井は、繊細な小組格天井でさらに本尊の位置を二重折り上げ格天井にするなど、他にみられない構造であり、また須弥壇の格狭間にも鎌倉様式の美しい曲線をとどめていることから、国指定の重要文化財となっています。 千観は当寺再興の勅命を受けたとき、堂宇の建立に先立ち、まず本尊から造るべきだと考えその本尊に女性三十三才の七難九厄といわれる大厄から守護してくれる法力を加えたいと、一刀三十三礼して千手観音を彫り上げたとされています。 今も厄除けの千手観音として厚い信仰を集めています。 地蔵堂には平安初期に造られた火除け地蔵菩薩坐像が祭られています。これは、火防の神として信仰されているあたご山の本地仏が地蔵菩薩であることから、京の都を火災から守るために本像が造られました。古来火難除けとしてその霊験あらたかな「火之要慎」のお札が今に伝えられています。 仁王門には鎌倉初期に造られた仁王像が祭られています。この期のものとしては、京都市内では最も古く優れたものですから、わが国の彫刻史上にも貴重な存在となっています。 この仁王門は江戸中期のものですが、昭和25年の台風で破損大となりましたので、昭和56年、解体復元修理を行ないました。この時寺門興隆を祈念して、境内を羅漢の石像で充満させたいと発願しました。十年後、その数は千二百躰となり、平成3年11月に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しました。表情豊かに並ぶ羅漢さんが訪れる人々の心を和ませてくれます。

化野念仏寺

華西山東漸院(かさいざんとうぜんいん)と号する浄土宗の寺である。 化野は古来より鳥辺野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)とともに葬地として知られ、和歌では「化野の露」として人生の無常をあらわす枕詞(まくらことば)に使われている。 寺伝によれば当寺は空海が弘仁年間(810~824)に、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅(まんだら)山寄りを胎蔵界と見立てて、千体の石仏を埋め、中間を流れる川(曼荼羅川)の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立し、五智如来寺と称したのが始まりといわれている。 当初は真言宗であったが鎌倉時代の初期に法然の常念仏道場となり浄土宗に改められ、名も念仏寺と呼ばれるようになった。 正徳2年(1712)に黒田如水の外孫の寂道(じゃくどう)が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像を安置し、境内には西院(さい)の河原を現出した多数の石塔石仏が立ち並んでいる。 なお、毎年8月23、24日の両日には、これらの石塔石仏に灯を供える千灯供養が行われ、多くの参詣者で賑わう。 ◆由緒 寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸寺念仏寺と称し浄土宗に属する。本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされている。現在の本堂は・庫裡は、正徳2年(1712)11月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである。 境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ配列安祀している。この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄土具現の感があり、多くの参詣がある。 石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に これはこの世の事ならず死出の山路のすそのなるさいの河原の物語・・・ もどり児が河原の石をとりあつめもれにて廻向の塔をつむ 一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・ とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原という。 あだし野は化野と記す。「あだし」とは、はかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、永遠の別離を悲しんだ所である。 兼好法師の徒然草に あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさらでのみ住果つる習ならば如何に物の哀もなからん世は定めなきこそいみじけれ としるされ、 式子内親王は、 暮るる間も 待つべき世かはあだし野の 松風の露に嵐たつなり と歌い、 西行法師も 誰とても 留るべきかはあだし野の 草の葉毎にすがる白露 と人の命のはかなさを詠んでいる。 竹林と多聞塀を背景に茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見ることもなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。 [千灯供養] 毎年八月二十三日、二十四日の地蔵盆の夕刻、境内にまつられた多くの無縁仏にろうそくをお供えする行事です。平安から鎌倉時代にかけ、繰り返された戦乱や疫病で、人の命ははかなく、この地は東の鳥部野、北の蓮台野と共に、西の化野(あだしの)として風葬の地であったと云われています。 人々によって、死者の供養の為に少しずつ石仏がまつられましたが、時代の変化に伴い地中に埋もれていったとされています。 一帯に埋没、散乱した石仏は明治時代中頃に境内に集められ、現在の姿にまつられました。以後、信者の方々や地元の人々の協力により、供養として蝋燭が供えられたことが千灯供養の始まりといわれています。 これら多くの石仏は、今でこそ無縁仏となっていますが、時代を遡っていけば、私達のご先祖様もいらっしゃるかもしれません。そういう意味では決して私達とは無縁ではないのです。先に述べた化野の歴史的背景において、長い時代を経て再びおまつりされた石仏に、きっと何かのご縁があるものと思ってろうそくをお供えください。

退蔵院

臨済宗妙心寺派の大本山である妙心寺の山内は、石畳で結ばれた一つの寺町となっており、46もの塔頭があります。 そのひとつ、今から六百年以上前の応永11年(1404年)に建立された塔頭が退蔵院です。方丈には無因宗因禅師(妙心寺第三世)がまつられています。 退蔵院の境内にはこの方丈を取り囲むように作庭された枯山水庭園「元信の庭」、方丈南方の850坪に及ぶ池泉回遊式庭園「余香苑」と、異なる趣の庭園が広がり、一年を通じて多くの樹木や草木に彩られます。 ◆由緒 妙心寺塔頭。1404年(応永11)波多野出雲守重通が建立。方丈(重文)は慶長年間(1596-1615)の建立。 庭園(名勝・史跡)は、狩野元信の作と伝え、回遊式に観賞式を加味した枯山水の優美な名園。 水墨画の祖といわれる画僧如拙の描いた室町時代の名作瓢鮎(ひょうねん)図(国宝)を所蔵。 昭和の名園(余香苑)は中根金作氏の作で800坪の地泉回遊式庭園。 年中季節の花が咲き江戸時代の水琴窟あり。

広隆寺

603年(推古天皇11年)秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を本尊として建立した京都最古の寺。 その本尊が国宝指定第1号の弥勒菩薩像。 桂宮院(国宝)は法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂。 10月の‘牛祭’は京都三大奇祭の一つ。真言宗。 建立:603年(飛鳥時代) ◆由緒 広隆寺は、推古天皇十一年(603)に建立された山城最古の寺院であり、四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。 この寺の名称は、古くは蜂岡寺と云い、また秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺などと云われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。 広隆寺の成立に就いて、日本書紀に次のように載っている。 十一年十一月已亥朔。皇太子謂諸大夫曰。我有尊仏像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進曰。臣拝之。便受仏像。因以造蜂岡寺。 以上のように秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わり、それを御本尊として建立した事がわかり、この御本尊が現存する弥勒菩薩であることも広隆寺資財交替実録帳を見ると明らかである。 さて、秦氏族が大勢で日本に帰化したのは書紀によると、第十五代応神天皇の十六年で、養蚕機織の業が主であったが、その外に大陸や半島の先進文明を我が国に輸入することにも努め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。 我が国に大陸文明を移し産業と文化の発達の源流、経済の中心ともなった太秦の、この広隆寺こそは、仏教を興隆して文化の向上を図り、民衆の和合を熱願された聖徳太子の理想の実現に尽力した秦氏の功業を伝える最も重要な遺蹟であり、信仰と芸術の美しい調和と民族の貴い融和協調とを如実に語る日本文化の一大宝庫である。 広隆寺は、弘仁九年(818)に火災に遭ったが、秦氏出身の道昌僧都によって再興、更に久安六年(1150)にも炎上し、永万元年に復興された。このように、度々の災禍にも拘わらず、多くの仏像がよく保存された事を思うと、これらの仏像がいかに強い信仰の対象となっていたかがうかがわれる。 ◆講堂(重要文化財) 永万元年(1165)に再建された京洛最古の建物で、俗に赤堂と呼ばれている。中央に本尊阿弥陀如来坐像(国宝)を、向って右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像を安置してある。 ◆太秦殿 太秦明神、漢織女(あやはとりめ)、呉秦女(くれはとりめ)を祀る。 ◆上宮王院太子殿(本堂) 享保十五年(1730)に建立された桧皮葺入母屋造のこの堂は、本尊に聖徳太子像を安置している。この太子像には、太子の偉徳功業を景仰せられる歴代天皇が、即位大礼に御着用の黄櫨染桐竹鳳麟御袍御束帯を贈進される御例になっており、毎年十一月二十二日に開扉される。 ◆桂宮院本堂(国宝)別名 八角円堂(四・五・十・十一月の日曜・祝日のみ公開) 聖徳太子が楓野別宮を起こされたところと伝えられ現在は広隆寺の奥の院と称される。現在の建物は建長三年(1251)に中観上人澄禅により再建された。 ◆新霊宝殿 飛鳥時代の弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)をはじめ、天平・弘仁・貞観・藤原・鎌倉と各時代の仏像を祀る。 ◆地蔵堂 平安時代に我国繁栄の為に弘法大師が諸人安産、子孫繁栄の御誓願に基き御製作になった腹帯地蔵尊である。 ◆薬師堂 阿弥陀三尊立像、薬師如来立像、不動明王 道昌僧都 弘法大師 理源大師を祀る。 ◆弥勒菩薩半跏思惟像(国宝) 我が国で最も古く最も美しいこの弥勒像は、永遠の微笑で人々を苦しみから救ってくださる仏さまです。細い眼、はっきりした眉、それにつゞく通った鼻すじによって、まことにすっきりと整えられていて、唇の両端にやや力をこめているために多少微笑を含んでいるように感ずる。両手の表現は変化があり優雅な趣に溢れ、特に右腕の力ーブの線が美しく、そして、両足を被う裳が台座に垂れかゝる部分は皺を顕著に表わし、又、衣端に変化を与えている点は上方の簡素な表現と対照的で非常に美しいのである。 用材は赤松であり、製作は飛烏時代であるが、この時代の彫刻でこれ程人間的なものはないと同時に、人間の純化がこれ程神的なものに近附いていることも他に類をみない。

大覚寺

嵯嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山である。 当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で、天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺に改められ、大覚寺と名付けられた。 その後一時荒廃したが、徳治2年(1307)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興するとともに大覚寺統を形成した。 以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳3年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。 宸殿は、後水尾天皇の中宮東福門院の旧殿を移築したもので、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅白梅図」などの豪華な襖絵で飾られている。 その外、御影堂(みえどう)、霊明殿(れいめいでん)、五大堂、安井堂、正寝殿(しょうしんでん)、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆由緒 嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の総本山である。当山は、嵯峨天皇の離宮嵯峨院の一部で天皇崩御の後の貞観18年(876)に寺と改められ、大覚寺と名付けられた。 その後、一時荒廃したが、徳治元年(1308)に後宇多天皇が入寺し、寺を復興すると共に大覚寺統を形成した。以後、持明院統と皇位継承について争い、明徳三年(1392)当寺で南北両朝の媾和が成立した。宸殿は、後水尾天皇の中宮東福院の旧殿を移築したものと伝え、内部は、狩野山楽筆の「牡丹図」、「紅梅図」などの豪華な絵で飾られている。その外御影堂、霊明殿、五大堂、安井堂、正寝殿、庫裏などの堂宇が建ち並び、旧御所の絢爛さを今に伝えている。 ◆五大堂 大覚寺の古文書の中に「嵯峨天皇の勅願により嵯峨離宮に嵯峨五台山明王院五大堂を建立し、弘法大師が入唐した折 大唐より伝わった。 五大明王(重要文化財につき宝物殿に安置)を奉祀し、弘仁2年(811)3月11日に利民安世、五大明王秘法を修し給う。たちまち、五風十雨節序にしたがい百穀豊饒し、万民其澤に潤う」と、その由来が伝えられています。 現在の建物は、江戸時代の天明年間(1781~89)に再建されたもので、大覚寺の本堂です。本来は境内中央、勅使門の正面(現在の石舞台)の位置にありましたが、大正14年(1925)大正天皇即位式の饗応殿が下賜され御影堂(心経前殿)として建築されたため、現在地に移築されました。 また、現在お祀りされている本尊は、大覚寺創建1100年を記念して昭和50年(1975)に京都の大仏師松久朋琳と人間国宝松久宗琳の手で新しく造像されたものです。 近畿三十六不動尊第十三番の霊場として多くの人々に親しまれております。  ◆嵯峨菊の由来 嵯峨菊は旧嵯峨御所大覚寺境内の大沢池にある菊ヶ島に源を発し嵯峨帝がこの菊を親しくお挿しになった故事がある。 また、平安朝の歌人 紀友則は、「一本と思ひし菊を大沢の池の底にも誰か植ゑけん」と詠んでいる。 この嵯峨独特の野菊を、永年に亘り王朝の感覚を以って育成し、一つの型に仕立て上げた、風情のある洗練された格調高い菊が嵯峨菊である。この菊の仕立ては一鉢に三本立とし、長さは二メートルにする。 これは殿上から鑑賞されるに便利なよう高く育てる為である。 花は先端に三輪、中に五輪、下に七輪で七・五・三とし、葉は下を黄色に、中程は緑、上の方は淡緑になるようにする。花弁は平弁で五十四弁、長さは約十センチが理想の嵯峨菊の型であり、淡色の花が色とりどりに妍を競い高い香をただよわせる。 ◆大沢池 庭湖ともいい日本最初の庭池で最も古い庭園といわれています 池には天神島と菊ヶ島の二つの島と巨勢金岡(こせのかなおか)が配置したといわれる庭湖石(ていこせき)があります この二島一石の配置が嵯峨御流いけばなの基盤となっています 遠くの山並みは東山連峰で正面の山は大文字山(如意ヶ岳)左手前は朝原山(遍照寺山)です この観月台からの中秋の名月は有名で 松尾芭蕉の   名月や 池をめぐりて 夜もすがら と句にも詠まれています。  また、左手奥には多宝塔や藤原公任が詠んだ   滝の音は絶えて久しくなりぬれど     名こそ流れてなほ聞こえけれ の名古曽の滝の石組み跡があります。 また 平安時代から鎌倉時代にかけての石仏(野仏)がみられ名勝に指定されています ◆霊明殿(れいめいでん) 昭和十一年の二・二六事件の凶弾に倒れた斎藤実第三十一代内閣総理大臣は昭和恐慌の折、国民の自力更正を願って昭和五年に東京都沼袋に自費で日仏寺を建立しました。その本堂を、大覚寺第五十二世草繋全宜(くさなぎぜんぎ)門跡が昭和三十三年に当地に移築し、霊明殿としたものです。正面には御本尊の阿弥陀如来を、右側には草繋門跡をお祀りしています。平成十一年、東京・招福不動住職斑目(まだらめ)日光僧正の寄進により修復され、移築当時の鮮やかな漆・丹塗がよみがえりました。 ◆貴賓館(きひんかん)・秩父宮御殿(ちちぶのみやごてん) 大正十二年、当時東宮仮御所であった霞ヶ関離宮に建てられたもの。昭和四十六年 大覚寺にご下賜されました。昭和四十八年移築復元され、現在は大覚寺の貴賓館です。竣工式には秩父宮妃殿下のご来臨をいただき、ご見分を賜りました。 ◆庭湖館(ていこかん) 江戸中期に建てられた大沢池畔にあった休憩所で、明治元年、現在地に移築されました。上段の間には、江戸時代の名僧慈雲(じうん)尊者の大幅掛軸「六大無礙(むげ)ニシテ常ニ瑜伽(ゆが)ナリ」が掛かっており「六大の間」と呼ばれています。 ◆心経殿(勅封心経殿) 大正十四年(一九二五年)の建立で法隆寺の夢殿を模した八角形で高床式のコンクリート造りの建物です。殿内には嵯峨天皇をはじめ後光巌、後花園、後奈良、正親町(おおぎまち)、光格天皇の般若心経の御写経が納められ薬師如来立像が奉伺されています。この勅封写経は天皇の命により封印をした経典として奉られ六十年に一度開封されています。 この建物は平成十年(一九九八年)に文化庁から「登録有形文化財」に指定されました。

祇王寺

往生院祇王寺と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、この地は、平安時代に、法然上人の弟子、念仏房良鎮(りょうちん)が往生院を開創し、後に祇王寺と呼ばれるようになったと伝えられている。 平家物語によれば、祇王は、平清盛に仕えた白拍子であったが、仏御前の出現により清盛の心が離れてしまったので、母刀自(とじ)、妹祇女と共に出家し、当地に移り住んだ。 後には、仏御前も加わり、念仏三昧の余生を送ったと伝えられている。 現在の本堂は、明治28年(1895)に再建されたもので、堂内には、本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置している。 境内には、祇王姉妹等の墓と伝える宝筐印塔及び平清盛の供養塔などがある。 「平家物語」の遺跡。平清盛が愛した祇王、仏御前がのちに妹の祇女、母刀自とともに尼僧として余生を過ごした、と伝える。 真言宗。本尊大日如来のほか、清盛、祇王・祇女らの木像を安置。祇王・祇女の墓といわれる宝筐印塔、鎌倉時代の作とされる清盛の五輪の石塔がある紅葉の名所。 紙王寺は竹林と楓に閉まれたつつましやかな草庵で、『平家物税問』にも笠場し、平山市盛の飽愛を受けた内拍子の祇£が消肢の心変わりにより都を追われるように去り、母と妹とともに出家、入寺した悲恋の尼寺として知られております。 紙王寺は北口の往生院の境内にあり、往生院は法然上人の門弟良鋲によって創建されたと伝わっています。山上山下にわたって広い寺域を占めていた往生院も後年は北廃し、ささやかな尼寺として残り、後に紙王寺と呼ばれるようになりました。 紙王寺墓地の入口にある碑には「妓王妓女仰刀自の旧跡明和八年半卯正当六百年己心往生院現住尼法専建之」とあって、 この碑の右側に「性如禅尼承安二(1172)年壬辰八月十五日寂」と刻まれているのは紙王のことと思われます。 紙王寺は明治初年に廃寺となりましたが残された慕と仏像は旧地頭の大覚寺によって保管されました。大覚寺門跡の楠玉諦師はこれを惜しみ、再建を計画していた時に、元京都府知事北垣国道氏が祇王の話を聞き明治28年に嵯峨にあった別荘一棟を寄付されました。これが現在の紙王寺の建物です。これらの関係から祇王寺は真言宗大覚寺派の寺院で、旧嵯峨御所大覚寺の塔頭寺院ともなっています。

宝厳院

臨済宗・天龍寺塔頭。 寛正2年(1461年)聖仲永光禅師を開山に迎え創建。 もとは上京区禅昌院町にあり、細川頼之の昭堂を寺としたという。 応仁の乱の兵火に会うなどしたが、豊臣秀吉の恩顧によって再建。 昭和47年より天龍寺塔頭弘源寺の境内にあったが、平成14年1月に現在地に移り再興した。 「都林泉名勝図会」にも掲載された、嵐山を借景とする回遊式庭園「獅子吼の庭」は紅葉と巨岩を配した庭園である。 本堂障壁画「風河燦燦三三自在」(田村能里子画伯筆)がある。特別公開時のみ。 平成15年に、庭園内に大正時代に建てられた茶室が修復を終え、「青嶂軒(せいしょうけん)」と名付けられ、茶会会場としても利用されるようになった。 ◆由緒 大亀山宝厳院は臨済宗大本山天龍寺の塔頭寺院で寛正二年(1461)室町幕府の管領細川頼之公により天龍寺開山夢窓国師の第三世法孫聖仲永光禅師を開山に迎え創建された。 創建時は、京都市上京区に有り広大な境内を有した寺院であった。応仁の乱により焼失したが再建され天正年間には、豊臣秀吉より御朱印料三十二石を付与、徳川幕府も明治に至るまで外護した由緒寺院である。その後、変遷を経て天龍寺塔頭弘源寺境内に移転の後、現在地(旧塔頭寺院跡)に移転再興された。 本堂には、本尊聖観世音菩薩、脇仏に三十三体の観世音菩薩、足利尊氏が信仰したと寺伝にある地蔵菩薩像が祀られており、西国三十三ケ所巡りに等しいと伝えられている。 ◆獅子吼の庭 この庭園は室町時代に中国に二度渡った禅僧策彦周良禅師によって作庭された名園で嵐山を巧みに取り入れた借景回遊式庭園である。「獅子吼」とは「仏が説法する」の意味で、庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって人生の真理、正道を肌で感じ心が大変癒される庭である。 庭園内には須弥山を現す築山、その前には人生を思わせる「苦海」(空池)が広がり対岸には「雲上三尊石」が有り海の中には、「此岸」より「彼岸」に渡る舟石、仏の元に渡る獣石が配置されている。また策彦禅師が命名された「獅子岩」、「碧岩」や「響岩」といった巨岩を身近に観る事が出来る。回遊路の途中には「破岩の松」が天に向かって真っすぐ生えているのを見ると「願心」の大切さを痛感する。 また、この庭園は江戸時代、京都の名所名園を収録した「都林泉名勝図会」(秋里籬島著)にも掲載された名園中の名園である。 春は新緑、秋は紅葉と一年を通して目を楽しませてくれる。 門前には、「嵐山羅漠」が祀られており、「羅漢」とは釈尊の弟子で崇高な修行者、「悟りを得た人」を意味する。「五百羅漢」を天下の景勝地・嵐山に建立する事により、人類の安心立命と嵐山の守護・景観保全を祈念するとともに、有縁無縁の菩提を弔うものである。 夢窓国師日く『山水ニハ得失ナシ、得失ハ人ノ心ニアリ』

神護寺

高雄山と号し、高野山真言宗の別格本山である。当寺の起原は、もと高雄山寺といい、天応元年(781)愛宕(あたご)五坊の一つとして建立されたといわれ、また和気清麿(わけのきよまろ)が河内(かわち)国(大阪府)に建てた神願寺を天長元年(824)この地に移し、空海(くうかい)(弘法(こうばう)大師)が住持となって、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改稱した。 その後寺運は次第に衰え、寿永三年(1184)文覚(もんかく)上人の中興もあったが、応仁の乱で再び衰え、豊臣・徳川氏などによって漸次修営され、現在に至っている。 大師堂(重要文化財)は桃山時代に再建されたもので納涼房といって、もと空海の住房であったと伝える。また鐘楼にかかる銅鐘(国宝)は貞観(じょうがん)一七年(875)の鋳造で橘広相(たちばなひろみ)の序詞・菅原是善(これよし)の撰銘・藤原敏行の書で古来三絶の鐘といい、著名である。金堂内の薬師如来立像・多宝塔内の五大虚空蔵(ごだいこくぞう)菩薩坐像(いずれも国宝)のほか、多くの重要文化財を有する。 境内の大師堂(重文)は桃山時代の再建であるが、そのほか平安時代初期より鎌倉時代初期にわたる多くの寺宝(国宝16点・重文2372点)を有している。 なお、境内西端、地蔵院前で行う土器(かわらけ)投げは、高尾名物として来山者の興趣をそそる。 ◆神護寺もうで 京の郊外の清遊地として古くから知られる、三尾の一つ高雄へは、都心から自動車でなら三十分を要せずして、錦織りなす清滝川のほとりに達します。 「もみじといえぱ高雄」のここ神護寺の、約20万平方メートル(60,400坪)の山内全域は、木々の緑と紅葉におおわれて、朱の金堂はカエデと色をきそい、大師堂は七世紀間の風雪に堪えてひっそりと静まり、多宝塔は緑をぬきん出て建ち、絵筆に描き尽くせぬ美しさです。 境内最西端の地蔵院の庭からながめる、清滝川の清流がつくる錦雲峡は、有名な「かわらけ投げ」のかわらけの、ゆくえを定めかねる、千仞の渓谷です。 春は桜が満山をかざり、夏は蝉しぐれに明け、河鹿、ひぐらしの声に暮れ、冬は雪に埋もれてこよなく美しい、当神護寺は、四季を通じて自然の美しさにつつまれて、しみじみと人の世のあり方を考えるのによい環境です。 ◆神護寺のはじまり 平安京造営(794~)の最高責任者(造宮大夫)であった和気清麿公が、いまの愛宕神社の前身、愛宕山白雲寺などとともに建てた愛宕五坊の一つで、「高雄山寺」とよばれたが、天長元年(824)、河内(大阪府)の神願寺(清麿公創立)の地が、よごれた所でふさわしくないという理由から高雄山寺に合併されて、「神護国柞真言寺」と称したのがはじまりでありますが、これより先、和気一族は、叡山の最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)をこの寺に招いて活躍の場とされたため、時の仏教界に新風を送ることとなり、平安仏教の発祥地となったところであります。 ことに弘法大師は唐(中国)より帰朝して、大同4年(809)に入山、いらい、14年間任持され、真言宗立教の基礎を築かれたところでありまして、のちの東寺や高野山金剛峰寺と並らぶ霊刹であり、弘法大師を初代としております。 ◆文覚上人の再輿 平安時代に二度の災害のため、堂塔のほとんどを焼失しましたが、一世の豪僧、文覚上人がその荒廃をなげいて、寿永三年(1184)後白河法皇の勅許を得、源頼朝の援助もあって往年以上の復興をみました。 ◆現在の盛観 応仁の乱では再び兵火をうけ、大師堂をのこして焼失しましたが、元和9年(1623)龍厳上人のとき、所司代板倉勝重の奉行によって楼門、金堂(いまの毘沙門堂)、五大堂、鐘楼を再興、近くは去る昭和10年山口玄洞居士の寄進で、昭和の名作といわれる金堂、多宝塔などが新築されて、今日の美観を整えております。 ◆当山の宝物 その始まりと、中興の歴史が示しておりますように、寺宝には、平安時代前期(約1,100年前)と鎌倉時代(7~800年前)の二期にわたるものが大部分であり、しかも芸術的価値においては第一級品に目されるものを数多く所蔵しておりまして、国宝16点、重要文化財2,372点があります。 毎年5月初旬の「宝物虫払い」行事には、これらの主要なものを順次展観いたします。 ◆弘法大師の宗教 堕落した奈良仏教にあきたらず、入唐求法によって弘法大師が将来、開宗された真言宗は、従来の仏教、すなわち顕教からは、秘密仏教(密教)といわれますが、この真言密教の宗といたしますところは、 「真言陀羅尼には神秘の力があり、その一字一句には百千の義趣を含蔵している。よってこれを念誦し、観修することによって、災を退け、福を招くことなどができるし、凡夫の身でもすみやかに仏になることができる」 と、現世において利益をうけることができることを説いているものであります。 平安時代には、当時の権力者であった朝廷や公卿・貴族の信仰が厚かったため、世に貴族仏教のように言われておりますが、その本旨とするところはすべての人びとに通じる、最も普遍的な教義であります。