田中神社

祭神として大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。 この付近はもと田中村と呼ばれる村があったが、その産土神(うぶすながみ)として、村民の信仰をあつめてきた神社である。 社伝によれば、弘安年間(1278~88)に祀られたものといわれ、その後、寛永5年(1628)下鴨神社の造替に際し、比良木社の旧殿を寄附せられた。 しかし、その社殿は、宝永3年(1706)の田中村の火災により、社蔵の古文書と共に焼失してしまった。 その後再建された社殿及び拝殿には、三ツ葉丸葵の紋が付けられ、昔の由緒を伝えている。 末社は四座あり、境内社の玉柳稲荷社は、明治25年に、氏子の要望によって建立されたものである。 例祭は、毎年10月23日に行われ、多くの参詣者で賑う。

聖護院門跡(森御殿)

本山修験宗の総本山。 1090年(寛治4)白河上皇の熊野参詣の折、増誉僧正が先達を務め、賞として寺を賜わり、聖体護持の意味で聖護院と名づけた。 1788年の内裏炎上の際、仮皇居ともなり、光格天皇遺品の屏風や狩野益信永納等の襖絵百七十面がある。 書院は御所の女院御殿(重文)を賜わった。 又、修験道の資料や什物を多数蔵する。 拝観は要事前申込。 建立:1090年(寛治4)

崇道神社

奈良後期、光仁天皇の皇子早良親王を祭る。 早良親王は反桓武帝の中心勢力で、のち捕われ自殺。 当時都に悪疫が流行したのは親王の祟りとされ、その霊をなぐさめるため崇道天皇の追号を贈り、同地に祭られたのが始まりという。

三千院

天台宗の門跡寺院で、伝教(でんきょう)大師が比叡山に一宇を建てたのに始まり、その後、近江東坂本・その他に移り、天正年間(1573~1592)この地に移った。 本堂往生極楽院(重要文化財)は、寛和元年(985)の建造と伝え、舟底の天井で名高く、内陣に金色丈六の阿弥陀如来坐像・観音勢至の両脇侍(重要文化財)を安置する。池泉廻遊(ちせんかいゆう)式の庭園有清園は、茶人金森宗和の作庭といい、宸殿の虹の襖絵は下村観山の丈作で、客殿の襖絵は竹内栖鳳(せいほう)等、近世画家五氏の筆である。 ◆由緒 大原の地一帯は、千有余年の昔から魚山と呼ばれ、天台声明(仏教音楽)の修行の地として信仰を集めた所です。 三千院は別名を梶井門跡、梨本門跡、円融院門跡とも呼ばれる天台宗五箇室門跡のひとつであります。 門跡寺院とは、皇子皇族が住職になられた御寺で、当院は宮門跡であります。開基は伝教大師最澄上人(767~822)で、本尊は薬師瑠璃光如来(秘仏)です。 移りゆく自然と歴史のなかで、御参拝の皆様には心安らかなひとときが得られることと存じます。ようこそお参り下さいまして、ありがとうございます。 ◆往生極楽院 平安時代の寛和2年(986)に建立された三千院の源ともいえる簡素な御堂。恵心僧都が父母の菩提のために姉安養尼とともに建立したと伝えられます。御堂内部の、船底天井および壁画は極楽の花園の図を、極彩色で描いております。単層入母屋造柿葺で、阿弥陀如来座像を中心に、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩。いずれも正座しています。 それはちょうど、掌をあわせて皆さんをあたたかくお迎えして、「どうぞ私の掌にお乗り下さい。苦しみの世界から楽しみの世界にお連れいたします。」と言っているお姿なのです。 ◆庭園 客殿・見所台からは聚碧園、宸殿からは往生極楽院に通じるところに有清園の庭園がそれぞれみえます。とくに杉木立と苔、紅葉は見事です。 ◆客殿・円融房・宸殿 客殿には鈴木松年、竹内栖鳳など明治の京都画壇を代表する日本画家の襖絵や古文書を観ることができます。また客殿から見所台を通って法話を聞いたり、希望者は写経ができる円融房があります。 宸殿内仏には恵心僧都の阿弥陀如来、救世観音菩薩、不動明王(いずれも重文)をお祀りしております。玉座の間は虹の間とも呼ばれていて、下村観山の筆になるものです。 宸殿は歴代住職、有縁無縁の方のご回向法要を行います。とくに毎年5月30日には、後醍醐法皇から伝承されている御懺法講(声明による法要)を奉修する道場でもあります。 ◆金色不動堂 平成元年に建立されたご祈願の根本道場。堂内には、長い間秘仏であった金色不動明王(智証大師作)を本尊としてお祀りしています。 ◆観音堂 二十五菩薩を中心に、補陀落浄土に模した石庭のかたわらに、身の丈3メートルの観音像が奉祀され、またご縁の方の小観音像がその両側に安置されています。奉安のご希望の方は係員までお申し出下さい。

八瀬天満宮

祭神として菅原道真(すがわらのみちざね)(八四五~九〇三)を祀る。 道真が亡くなった後、師である叡山(えいざん)法性坊阿闍(ほうしょうぼうあじゃ)梨(り)尊(そん)意(い)(八六六~九四〇)の勧請(かんじょう)により建立されたと伝えられ、社殿の背面扉の内側には、十一面観音絵像が祀られている。 十一面観音は道真の本地仏(仏としての姿)である。 道真が若い時、自己研鑽のため比叡山へ通う折り、此の地で休息したといわれ、江戸時代まで「矢(や)背(せ)天神宮」とも呼ばれたこの辺りの風情は、壬申(じんしん)の乱(六七二)の際,此の地で矢傷を癒した天武(てんむ)天皇以来の歴史を偲ぶことができる。 天満宮社には九つの摂社が祀られ、本殿南側の秋元(あきもと)神社は、宝(ほう)永(えい)七年(一七一〇)比叡山との境界論争勃発の際、八瀬村の利権(租税の免除)を認めた裁決の報恩として、時の幕府老中で,この訴訟の担当者であった秋元(あきもと)但馬(たじまの)守(かみ)喬(たか)知(とも)を祀り、以来毎年「赦免(しゃめん)地踊(ちおど)り」が奉納されている。 また裏山中腹には、足利(あしかが)尊(たか)氏(うじ)に追われ比叡山へ逃れた後(ご)醍醐(だいご)天皇の行(あん)在所(ざいしょ)(天皇が外出した時の仮の御所)があった「御所谷」、境内には、「後醍醐天皇御旧跡」、「復租紀恩碑」、「皇后陛下御歌碑」、「弁慶背比べ石」、「菅公腰掛け石」等の史蹟がある。 天満宮社の例祭は五月五日。 秋元神社の例祭「赦免地踊り」(八瀬郷土文化保存会執行)は十月体育の日の前日夜に実施される

鞍馬寺

奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)の開山鑑真和上(がんじんわじょう)の高弟で、慈悲の権化といわれた鑑禎上人が、宝亀元年(770)正月4日に、白馬(あおうま)が鞍を置いて雲中にあるかのようなたたずまいを、この山容に感じて霊地と定め、さらに毘沙門天を感得してその姿をまつったのがこの寺のはじまりである。 4600