友禅苑(知恩院内)

知恩院友禅苑は、友禅染の祖、宮崎友禅斎誕生300年を記念して、昭和29年に改修造園されました。 東山の涌き水を配した「染糸の滝」を有する池泉式庭園と、枯山水の鹿野苑で構成され、補陀落池の中央には、高村光雲作の観音像が水面に映えるその姿は深い趣を感じさせます。 また、苑内には、裏千家ゆかりの茶室「華麓庵」と、知恩院第86世中村康隆猊下白寿の記念に移築された茶室「白寿庵」があります。 友禅染を生み出した友禅斎ゆかりの庭園と呼ばれるのにふさわしい、華やかな昭和の名園です。

安養寺

円山(えんざん)と号し、時宗に属する。 延暦年間(782~806)最澄(伝教大師)が開創したと伝え、法然・親鸞両上人念仏発祥の地・吉水(よしみず)草庵として有名である。 のち、建久年間(1190~1199)に至って慈鎮(じちん)(慈円・関白九条兼実の弟)が中興し、安養寺と称した。 その後、次第に衰微したが、至徳年間(1384~1387)には国阿(こくあ)上人によって再興され、以後、時宗に改まった。 境内には、もと六阿弥坊があって、いずれも林泉の美と眺望に富む楼閣を構え、遊客に席を供して風流行楽の域となった。 しかし、明治維新の際に六坊は廃寺され、また火災にあうなど次第に衰微し、今は門内境内に阿弥陀堂・書院を、飛地の境内(ここから約50メートル南へ下る)には弁天堂、慈鎮和尚多宝塔を残すだけである。 弁天堂は、慈鎮が叡山から勧請(かんじょう)したものといい、技芸上達の祈願の信仰が厚い。 弁天堂の東北隅にある慈鎮和尚多宝塔は、塔身正面に扉を開き、多宝、釈迦二仏が並座する鎌倉時代初期の逸品である。

清閑寺

新義(しんぎ)真言宗智積(ちしゃく)院の末寺で、延暦21年(802)紹継(しょうけい)法師によって創建され、はじめは天台宗延暦寺に属していたが、のち荒廃し、一条天皇の御代(986~1011)伊予守佐伯公行(いよのかみさえききんゆき)が再興して、長徳2年(996)勅願寺となった。 大治4年(1129)火災にかかり、再建後安元2年(1176)六條天皇を、養和元年(1181)高倉天皇をそれぞれ寺内に葬った。 応仁の乱で焼亡した後、慶長年間(1596~1614)紀州根来(ねごろ)寺の性盛(しょうせい)が復興した。 しかし、かつての法華三昧堂(ほっけざんまいどう)や宝塔などのならんだ偉観はなく、今はわずかに本尊十一面観音像を安置する本堂一宇があるのみである。 背後の山に六条・高倉天皇陵があり、その傍らに小督局(こごうのつぼね)墓という宝筐印塔(ほうきょういんとう)がある。 高倉天皇の寵姫小督局は、平清盛に追われて当寺に入って尼となり、養和元年(281)21歳で世を去った。 また境内にある郭公亭(かっこうてい)は安政5年(1858)清水寺成就院の日照上人が、西郷隆盛と密かに会合して、都落ちの計画をたてた有名な茶室である。

剣神社(剣さん)

東山の音無川と今熊野川の合流点近くにあり瓊々杵命と白山姫命を祭る。 中世は泉涌寺の守り神であったらしい。 現在は今熊野一帯の産土神で、とくに子供の疳虫封じ祈願で知られる。 天明、天保の火災で詳しい創建由緒は不明。