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明暗寺
正伝永源院
当院は建仁寺の塔頭寺院の一つで、建仁寺39世無涯和尚が創建し、もと永源庵と称したが、明治6年(1873)廃寺となったため祇園にあった正伝院を此の地へ移し、のち「永源」の名を受けつぎ、いまの名に改めた。 釈迦如来を本尊とし、客殿・庫裡(くり)・鐘楼・唐門のほか、正門の左手に織田有樂斎らの墓がある。 寺宝には有樂斎に関する遺品が多い。 有樂斎は織田信長の弟で、長益と号した。 信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶道の宗匠となった。 晩年は祇園花見小路四条下ルに「正伝院」を再興し、そこで茶道三昧の生活を送ったが元和7年(1621)70才で没した。 有樂斎の墓は正伝院の移転後も旧地に残っていたが、昭和37年秋、有樂斎夫人・息女・孫織田長好の3基とともにここに移された。 現在各地に有樂流の茶道が受けつがれている。
法性寺
方丈庭園(知恩院内)
霊源院
即成院(那須与一さん)
山号を光明(こうみょう)山(ざん)とする真言宗泉涌(せんにゅう)寺派の寺である。 寺伝によれば、正暦(しょうりゃく)三年(九九二)、恵(え)心(しん)僧都(そうづ)(源信(げんしん))により伏見(宇治川北岸)に建立された光明院を起源とする。 寛(かん)治(じ)年間(一〇八七~一〇九四)に橘(たちばなの)俊(とし)綱(つな)(藤原頼通(よりみち)の子)が山荘を造営するにあたり、光明院を持仏堂として傍らに移設し、後に山荘を寺院と改めてからは伏見寺または即成就院と呼ばれていた。 宇治川を挟んで向かい側には父、藤原頼通の宇治殿改め平等院が建っており、父子相呼応するような寺院建立の経緯である。 文(ぶん)禄(ろく)三年(一五九四)、豊臣秀吉の伏見築城のため、深草大亀谷に移転し、さらに明治時代に至って泉涌寺山内に再興され、即成院と呼ばれるようになった。 本堂には、仏像群としての形式は極めて珍しい阿弥陀如来像並びに二十五菩薩像(重要文化財)が安置され、境内には平安時代の武将であり、弓の名手であった那須与一(なすのよいち)の墓と伝えられる石造宝塔がある。 寺伝によれば、与一は出陣する途中、病に罹(かか)ったが当院に参籠し、本尊阿弥陀如来の霊験で平癒し、屋島の戦い(源平の戦い)で戦功をたてたので、仏徳に感じて出家し当院に庵をむすび、一生を終えたと伝えられている。 木造阿弥陀如来及二十五菩薩坐像 泉涌寺塔頭の即成院にある平安時代から江戸時代にかけて作られた重要文化財彫刻。 本堂内丈六の阿弥陀如来像を中心に、半等身の二十五菩薩像を左右に配し、阿弥陀如来が二十五菩薩を率いて極楽浄土から来迎する様子を現したもの。 二十五菩薩像のうち十一体は平安時代の作、他は江戸時代の補作である。
真福寺
新熊野神社(権現さん)
平安後期、熊野詣盛んな頃、後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現した熊野の新宮。 創建は1160(永暦元年)境内の大樟は当時熊野より移植した後白河上皇お手植といわれている。 又当社は、日本能楽史上紀元元年といわれる1374(応安7年)観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地としても著名。 現本殿は1673(寛文13年)聖護院道寛親王が再建した市指定重要文化財。 5月5日「新熊野祭」鳳輦巡行。 H26年は9月8日(仲秋の名月)「大樟祭」。 11月23日お火焚祭。 12月23日「つなかけ祭り」。 H27年は1月12日(成人の日)「左義長祭」、6月30日「茅の輪くぐり」。 なお、大樟祭・左義長祭は年によって実施日が変わります。