西福寺

上田秋成は江戸時代後期の浮世草子・読本の作者。「雨月物語」の作者として有名。また、歌人・国学者としても、世に知られている。通称、東作。無腸(むちょう)・和訳太郎・剪枝畸人(せんしきじん)・鶉居(うずらい)などと号した。大阪市に生まれ、のちに紙・油商嶋屋上田家の養子となる。漢学を大阪の儒医都賀庭鐘(つがていしょう)に、国学を建部綾足(たてべあやたり)、賀茂真淵(かものまぶち)門下の加藤宇万伎(うまき)に学ぶ。明和3年(1766)33歳で浮世草子「諸道聴耳世間猿(しょどうききみみせけんざる)」を刊行。38歳で罹災してからは、医学を学び大阪で医を開業。国学者としては、本居宣長(もとおりのりなが)と復古や古代の音韻・仮名づかいについて論争を行った。60歳を過ぎて妻とともに京都へ移住。知恩院門前袋町や南禅寺山内などに住み友人羽倉信美(はくらのぶよし)の寺町広小路の邸内で没した。ほかに主な著書として「春雨物語」「胆大小心録(たんだいしょうしんろく)」がある。

西雲院

金戒光明寺塔頭。1175年(承安5)法然上人がこの地の石に腰を下ろし、日想観をしていると、紫雲がたなびいて、悟った上人は、この岡に庵を結んだのが金戒光明寺の始まりであり、この石を「紫雲石」という。開基の宗厳(そうごん)は、秀吉が朝鮮に出兵の時に連れ帰った一人でのち出家してこの石を賜り元和2年草庵を結ぶ。その後「万日」の別時念仏を修する者ひきもきらず、「万日寺」と称せられる。幕末、黒谷一山が京都守護職会津松平侯の本陣となり、当院は会津藩戦没者墓地をあずかる。

無量壽院長圓寺

浄土宗。板倉勝重が開基し、大誉清厳を開山として創建した。 本尊は阿弥陀如来。洛陽三十三所観音霊場第24番札所。 観音堂に安置されている聖観音は、平安時代に源信が痘瘡の流行を鎮めるために制作し、霊告により大誉が叡山から現所へ移したと伝えられる。

西教寺

指方山(しほうざん)と号し、浄土真宗本願寺派に属する。土御門(つちみかど)天皇の時代に親鸞聖人の教化をうけて法名を恵明とよばれた太田頼基(清和天皇の皇子貞純(さたずみ)親王の10世の孫)を家祖とし、蓮如上人に恵光(えこう)という法名を与えられた太田頼忠から6世の孫にあたる頼賢によってこの寺が開かれた。 頼賢は元和4年(1618)摂津(大阪)太田村に生まれ、寛永11年(1634)本山(本派本願寺)で得度し恵海とよばれた。恵海は明暦2年に岡山の光清寺の住職となった。時の藩主池田候より弾圧を受けたが屈せず、かえって諌鼓(かんこ)集二巻を著して反省を求めたため投獄された。このことを本願寺14世寂如上人が知り、池田家に申し入れて寛文10年(1670)恵海を帰京させた。後、その功績により本山の仏堂執事に抜擢され、延宝2年(1674)西六条に一寺を与えられた。 西教寺はのち現在地に移転したが、寺宝の中には宗祖聖人の尊骨、真影を始め、本山からの受領品を数多く蔵している。 なおこの地は明治維新の功臣松井中務(本願寺寺臣)の殉難の地として知られている。