当山は650年(白雉元年)役の行者が草創。 829年(天長6年)弘法大師が、淳和天皇の叡願により再興、本尊不動明王は淳和天皇の勅願に依り弘法大師の直作と伝えられ、根本中院本尊眼力不動明王は宇多天皇の勅願により菅原道真公一刀三礼の彫刻で以来皇室勅願所として崇敬深く、秘仏として即位に際し勅使を迎え開扉され、宝祚延長、万民安穩の祈願を籠めた。 日本最古不動明王顕現の神秘霊峯である。 皇室の崇敬の一因には鴨川の水源地である洞窟の湧水を敬い、水神を祀り、清浄な鴨川の用水を祈願したと伝わる。水の伝説として有名な歌舞伎十八番「鳴神」がある。 1831年(天保2年)失火により山門を除く殆んどが焼失の悲運にあったが本尊不動明王は災厄を免れた。 その後、熱心な信者により復興された。 市の天然記念物に指定されている境内のしゃくなげ林は4月下旬から5月上旬が見頃。 司馬遼太郎が好んだ山寺で、アニメ「もののけ姫」のタイトルもこの森から生まれたといわれている。
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転法輪寺
獅子吼(ししく)山と号し、浄土宗地恩院派に属する。宝暦8年(1758)、僧関通(かんつう)が北野下ノ森に創建した。この地には、昭和4年に移転した。 関通は尾張国(愛知県の生れ)江戸増上寺で祐夫について修業し、享保10年(1725)より諸国に浄土宗をひろめ、16ヶ森を創建し、得度させた僧尼は1500人、戒をさずけた者3000人に達したという。精力的な活躍をした人である。 本尊は阿弥陀如来座像で、高さ2丈4尺の巨大なもの、新中和門院で桜町天皇のために造られたものと伝えられている。 今一体本堂厨子内に安置する阿弥陀如来立像は、高さ2尺5寸で室町時代の作、裸のままであることが、全国的に珍しい佛像である。
三鈷寺
西山宗の総本山であり、四宗(天台、真言、律、浄土)兼学である。 平安中期の承保元年(1074)、叡山の源算(げんさん)上人が草庵を建て、往生院と号したのが当寺の起こりである。 二祖観性法橋(かんしょうほうきょう)を経て、三祖慈鎮(じちん)(慈円)から西山上人証空(しょうくう)(善慧房(ぜんえいぼう))に譲られた。 証空は念仏の道場として発展させ、浄土宗西山派をこの山に創始し、背後の山の頂上髢嶽(かもしかだけ)の三峰が仏具の三鈷に似ているところから寺名を三鈷寺と改め、勅願所に列せられた。 証空は宝治元年(1247)入滅。華台廟はその墓所で、証空に深く帰依した蓮生(れんしょう)(宇都宮頼綱)が多宝塔を建てた。 蓮生には「抱止(だきとめ)阿弥陀如来」の縁起も伝えられている。 中世を通じて念仏の道場として証空の法流を伝え、多くの寺領荘園を持ち寺運は栄えたが、応仁の乱の兵火により多宝塔以下山内は荒廃した。 江戸時代に復興の努力がなされたが、旧観には復さなかった。 52代台龍上人が現在の寺観を整備し、昭和26年(1951)西山宗として独立した。 建物としては華台廟、本堂等を残すのみであるが、古い由緒を物語る寺宝は多い。 また、客殿からの眺めはすこぶる良く、京都の市街地まで見渡せ、中でも東山に上る名月の眺めは関西随一と称される。
慶徳院
閑臥庵
黄檗宗。後水尾法皇が御信仰篤く、もと梶井常修院の宮の院邸を献上されたものである。 初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆禅師を招いて1671年に開山した。 法皇より「閑臥庵」の勅号を賜り御所の勅願所とされた。 十干十二支九星を司る総守護神で、安倍晴明が開眼した北辰鎮宅霊符神が祀られている。 後水尾法皇ゆかりの品々や伊藤若冲の十二支版木、開山三百三十周年記念時に制作した砂曼荼羅など公開されている。 ◆由緒 山号を瑞芝山(ずいしざん)という黄檗宗(おうばくしゅう)の寺である。 後水尾上皇が鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)を貴船の奥の院より勧請せられ、隠元禅師(いんげんぜんし)の弟子である千呆和尚(せんがいおしょう)がこれを祀り、王城鎮護の祈祷道場として上皇みずから宸筆(しんぴつ)の額を寄せられた。これが当寺の起りといわれる。 この神は衆星守護をつかさどる神とされ、安倍晴明(あべのせいめい)の開眼と伝えられる。 また、上皇は庭前に桜を植えられたが、その後、咲きにおう花をご覧になって 霞みゆく松は夜ふかき山端(やまばた)の あけぼのいそぐ花の色かな と詠まれたので、それより桜は「あけぼの桜」と名付けられ、寺名も曙寺と呼ぶようになったという。 この桜は惜しくも大正14年(1925)に枯れはてて、現在の桜は近年の植え替えである。
法音寺
菩提樹山と号し、もと天台宗で現在は浄土宗西山派に属する。慈覚大師の創建と伝えられ、平安時代諸書にこの寺の名があらわれている。 しかし、応仁の乱の兵火にあって一たん焼失し、その後復興した。花山院天皇の勅願所となり、また西国三十三ヶ所霊場復興所の本山である。 本寺は左大文字の発祥地旧大北山村の菩提寺でもある。 毎年8月16日朝、本寺にて施設餓思会が行なわれ、その時使われた火が、左大文字の親火となって点火される。 大文字送火の起源や、その意味については諸説があって一定でないが、江戸時代のはじめより記録にあらわれ、お盆の精霊の送り火として毎年点火されてきた。 左大文字は、本寺を中心とした旧大北山村の人々によってうけつがれてきたのである。 うらよりも むらにいでぬるみちなれば これぞほとけの みちになるらん
大乗院
葉室山 浄住寺
葉室山に号し、黄檗(おうばく)宗に属する。 寺伝によれば、弘仁年間(810~824)嵯峨天皇の勅願によって円仁が開創した。 弘長年間(1261~1263)葉室定嗣が西大寺の叡尊(えいそん)を請じて中興してのち、葉室家の菩提寺となって盛えた。正慶2年(1323)の絵図によれば、本堂・鐘楼・舎利殿など多くの堂宇がたちならんで威容を誇っていたさまが描かれている。 しかし、南北朝時代以後たびたび兵火にあい荒廃していたが、元禄2年(1689)葉室孝重は鉄牛禅師に深く帰依し、禅宗の寺として本寺を再興した。 本堂には本尊釈迦牟尼仏坐像を安置し、本堂背後の開山堂には鉄牛禅師像を安置する。 寺宝には、葉室氏及び叡尊関係のものが多く、なかでも叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」が有名である。