大悲山の中腹にある。1154年(久寿1)観空の創建。本山修験宗。 崖に張り出した本堂(重文)は、わが国最古の舞台造り建築、修験道場で奈良の大峰山に対し北大峰と呼ばれる。 春はシャクナゲ、秋は紅葉が美しい。雨天と冬期は入山不可。 (仁王門から本堂までの参道は、歴史的自然環境保全地域にて植生物を観察して往復30分。本堂までしか入山できない。山中は立入禁止)
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成願寺
延暦寺 東塔
比叡山延暦寺(三塔十六谷)の中心で、総本堂の根本中堂をはじめ、大講堂、法華総持院東塔など重要な堂塔が集まっている。 天台宗の本山 比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。 山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする総本堂・根本中堂を創建して比叡山を開きました。 最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。 最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。 特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。 比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。 その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。
延暦寺 西塔
社大なたたずまいの点塔に対し、西塔は美しい杉木立の間から小鳥のさえずりが聞かれる静寂境。 釈迦堂を中心に椿堂、にない堂などがある。 天台宗の本山 比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。 山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする総本堂・根本中堂を創建して比叡山を開きました。 最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。 最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。 特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。 比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。 その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。
聖護院門跡(森御殿)
醍醐寺三宝院
醍醐寺塔頭・三宝院は永久3(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建されました。 醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、その建造物の大半が国宝や重文に指定されている。 大閣秀吉が槍山で花見をしたときの建物を移築したものといわれています。 襖絵の桜・紅葉は、平成に入って日本画家・浜田泰介画伯が描いたものです。 ◆由緒 真言宗の宗祖・弘法大師の孫弟子にあたる聖宝・理源大師は貞観16年(874)醍醐山上に草庵を結び、准胝・如意輪の両観音像を彫刻し、堂宇に安置した。これが醍醐寺の始まりである。 開創後、醍醐、朱雀、村上の三帝の深い帰依によって、次第に堂塔が建立され、天暦5年(951)には五重塔が完成。山上山下にまたがる大伽藍が整った。 開山以来、醍醐寺は日本仏教史上枢要な位置を占め、伝えられたものの多くは国の国宝・重要文化財に指定されており、平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。 ◆下醍醐 醍醐山の西麓一帯に広がる堂塔、諸院を総称して下醍醐と呼ぶ。 西大門(仁王門)をくぐると京都府下では最古の建造物である五重塔(国宝)が、堂々たる姿を現す。五重塔の北側にある金堂は、紀州(和歌山県)湯浅から豊臣秀吉の命によって移築されたものだが、平安末期の様式をよく残しており、国宝に指定されている。 この他、清瀧宮本殿(重文)、祖師堂、不動堂、真如三昧堂などがある。 ◆上醍醐 下醍醐から約1時間、山道を登ると山上の堂宇に出合う。この醍醐山上に広がる堂宇を総称して上醍醐と呼ぶ。この上醍醐こそ醒醐寺草創の地である。上醍醐には西国11番札所・准胝堂があり、巡礼の人の姿が絶えない。五大堂は、餅上げ競技で有名な「五大カさん」の本尊を祀るお堂で、毎年2月23日に下醒醐・金堂で授与されるお札「御影」は、このお堂で1週間にわたって祈願される。この他、薬師堂(国宝)、開山堂(重文)、如意輪堂(重文)、清瀧宮拝殿(国宝)などがある。 ◆三宝院とその庭園 三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正の創建。醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主の住房である。現在の三宝院は、その殿舎の大半が重文に指定されている。中でも庭園全体を見渡せる表書院は、寝殿造りの様式を伝える桃山時代を代表する建造物であり、国宝に指定されている。 また、菊と桐を大胆に意匠した唐門は、伏見城から移築されたと伝えられるもので、国宝に指定されている。 国の特別史跡・特別名勝となっている三宝院庭園は、慶長3年(1598)豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自ら基本設計をした庭であり、桃山時代の華やかな雰囲気を伝えている。
延暦寺 横川
延暦寺三塔の中で、一番北エリア。慈覚大師円仁によって聞かれ、 源信、親鸞、日蓮、道元など、のちに名僧と言われた人たちが修行に入った地。 天台宗の本山 比叡山は、京都と滋賀の県境にあり、東には「天台薬師の池」と歌われた日本一の琵琶湖を眼下に望み、西には古都京都の町並を一望できる景勝の地でもあります。このような美しい自然環境の中で、一千二百年の歴史と伝統が世界に高い評価をうけ、平成6年(1994)にはユネスコ世界文化遺産に登録されました。 山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする総本堂・根本中堂を創建して比叡山を開きました。 最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。 最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。 特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。 比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。 その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。