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帝釈天題経寺 彫刻ギャラリー
大船観音寺
昭和4年、当時の日本は第一次世界大戦後の不況や飢饉など、不安定な社会情勢の中にありました。 そこで、観音信仰によって国民の平安と国家の安寧を祈願しようと、護国大船観音建立会を設立。 昭和9年には観音様の輪郭まで完成したのですが、日中戦争・太平洋戦争に突入し資金や資材不足となり、観音像は未完成のまま放置されました。 昭和32年に放置された観音像を完成させようと、曹洞宗管長高階瓏仙、吉田内閣国務大臣安藤正純、東急会長五島慶太等を中心に財団法人大船観音協会が設立され、修仏工事が着工されました。 そして昭和35年、現在の観音像が完成されたのです(胎内にはこの修仏工事の写真が展示されております)。 その後、昭和56年、大船観音協会は宗教法人大船観音寺と改称し、曹洞宗大本山総持寺の末寺として現在に至っております。
安国論寺
日蓮聖人は、文応元年(1260)三十九才のお歳にこの御小庵で、かの有名な「立正安国論」をお書きになり、同年七月十六日前執権北条時頼に建白されました。そのため翌八月二十七日に大難は四度、小難は数々といわれた四大法難の最初、松葉ヶ谷焼打の御法難にあいました。 今も裏山に一時避難された南面窟が残っております。
本興寺
龍口寺
来迎寺
長寿寺
円応寺
創建は建長二年(1250)、開山は知覚禅師。閻魔堂、十王堂とも呼ばれ、人が死後、亡者と成って冥界(めいかい)で出会う十王を祀る寺。 初め見越獄(大仏の東の山)にあったが、足利尊氏が由比ヶ浜古戦場の亡魂(ぼうき)を弔う為、由比ヶ浜に移築した。その後元禄16年(1703)に起きた大地震と津波の被害により、現在の地に移った。 鎌倉時代の仏師「運慶」が頓死をし、その慳貧心(けんろうしん)ゆえ地獄に落ち閻魔大王の前に引き出された時、閻魔大王が「汝は生前の罪により、獄卒の呵責(かせき)を受けるべきであるが、汝が我が姿を彫像し、その姿を見た人々が悪行を成さず、善縁に趣く(おもむく)のであれば、汝を娑婆(しゃば)に戻して上げよう。」と言われた。運慶は生き返った事を喜び、あの世で会った閻魔大王の姿を彫った。その閻魔大王を本尊とするのが、この「円応寺」である。 尚、運慶が笑いながら閻魔大王の姿を彫ったため「どことなく閻魔さまも笑っているいるようにみえる」と言われており、古来より「笑い閻魔」とも言われている。 ◆十王とは 十王とは人が死後、亡者と成って冥界に行き出会う十人の王の事。亡者の生前の行いを取り調べる裁判官である。 亡者は初七日は「秦広王」二・七日は「初江王」三・七日は「宋帝王」四・七日は「五官王」五・七日は「閻魔王」六・七日は「変成王」、七・七日は「泰山王」百ヶ日は「平等王」一周忌は「都市王」三回忌は「五道転輪王」と十回それぞれの王の前で取り調べを受ける。 「閻魔大王」が以前の四王の取り調べと合わせて、亡者が六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界)の何処に生まれ変わるかを決定する。「変成王」は亡者が生まれ変わる「場所の条件」を決定する。例えば人間界に生まれても、争いばかりしている所もあれば、平和で豊かな所もある。「泰山王」は亡者が生まれ変わる「個人の条件」寿命、男女の差などを決定する。 七・七日の四十九日までの間は「中有」または「中陰」と言い、亡者の霊魂は生前その人が生活していた所に漂っており。「四十九日」が終わって、それぞれ定められた所にいく。又、「悪趣」(地獄、餓鬼、畜生、修羅)に行く事が定められた亡者も、百ヶ日、一周忌、三回忌と供養を重ねる事により誰でも「天上界」(極楽)に行く事ができる。 ◆子育て閻魔の由来 昔鎌倉の地が荒れ果てていた時、山賊が閻魔堂を根城にし、寺の前の小袋坂を通る人々を襲って金品を奪っていた。ある時山賊が幼子を連れた女人をお堂の中へさらってきて、「子供は邪魔だ」と両腕で頭上に持ち上げ、今まさに地面に叩きつけ様とした。その時、閻魔大王の舌が「スー」とのび、幼子を「クルリ」と巻き取り、大きな口を開けて飲み込んでしまった。すると山賊は「ワー、閻魔大王が動いた。子を食った」と驚き恐れお堂から逃げ出してしまった。残された女人は、恐ろしさのあまりお堂の中に座りこんでガタガタとふるえておった。すると閻魔大王が「もう良いだろう」と言って、大きな口を開き、女人の目の前に「スー」と舌を延ぱした。女人が恐る恐る舌の上を見ると、先程飲み込まれた幼子が「スヤスヤ」と気持ち良さそうに寝入っていた。お陰で女人は幼子と一緒に無事小袋坂を越える事が出来た。その後、この閻魔様は「子育て閻魔」として、近在の人々に信仰されるようになった。 現在でも「子育て閻魔」にお参りすると、子育て安泰、学業成就、受験等子供が無事に成長するように、閻魔大王が守ってくれる、と信仰を集めている。
来迎寺