Tag: 寺院
覚園寺
瑞泉寺
嘉暦二年(1327)七朝帝師夢窓国師は西の富士山を客山に北の天台山を主山とする禅院相応の勝地この錦屏山に自ら瑞泉寺を開かれ、中腹の鎌倉石の岩盤に庭の約束事である滝・池・中島等のすべてを巧みにえぐって橋をかけ、さらに水を貯めて滝として流す貯水池までも刻んだ岩庭と呼ぶにふさわしい庭園を作られた。 山項の偏界一覧亭の前景を兼ねるこの瑞泉寺庭園は夢窓国師という優れた禅僧にしてはじめてなし得た禅の庭園で、後の西芳寺・天龍寺の先蹤をなすものである。 鎌倉に存する鎌倉期唯一の庭園として、また彫刻的手法の独自の意匠による庭姿をほとんど完全に伝える極めて稀なものとして国の名勝に指定されている。また五万坪に及ぶ広大な境内全域は鎌倉公方家四代の菩提所として関東十刹の首位に列せられた往時の規模をそのままよく保持し伝えるものとして国の史跡に指定されている。 ◆名勝瑞泉寺庭園 紅葉ヶ谷を囲む三方の山が天然の垣根をなし、わずかに開けた西の空に富士山を仰ぐこの地を選び、天台山、錦屏山を背景として、夢窓国師は庭園を作られました。それは、鎌倉石の岩盤に地形に即して巧みに彫刻をほどこした、鎌倉ならではの性格のものでした。 境内の北の一隅の岩壁の正面に大きな洞(天女洞)を彫って水月観の道場となし、東側には座禅のための窟(座禅窟、葆光窟)をうがちました。天女洞の前には池を掘って貯清池と名づけ、池の中央は掘り残して島となしました。 水流を東側に辿れば滝壺に水分け石があり、垂直の岩壁は滝、その上方をさらに辿れば貯水槽があって天水を蓄え、要に応じて水を落とすしつらえとなっています。 池の西側には二つの橋がかかり、これを渡るとおのずから池の背後の山を辿る園路に導かれます。非公開ですが二つの橋も数えて十八曲がりに園路を登ると錦屏山の山頂に出て、私たちはそこにまた大きな庭と出会います。 鶴ヶ丘から鎌倉周囲の山並みが幾重にも浪状をなして重なり、遠くには箱根の山々がかすみ、右手に霊峰富士が大きく裾を広げる足下には、相模湾が自然の池をなしているのです。借景の大庭園の広がるこの山頂に夢窓国師は小亭を建て、界一覧亭と名づけました。 岩盤を彫刻的手法によって庭園となした、「岩庭」とも呼ぶべきこの庭園は、書院庭園のさきがけをなすものであり、鎌倉に残る鎌倉時代唯一の庭園なのです。
千手院
長勝寺
伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。 境内の建物のうち、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。 毎年2月11日には、國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。 ◆由緒 石井山長勝寺と号し、開山は日蓮上人で、本尊も日蓮上人です。 上人の四大法難のひとつである。「松葉ヶ谷焼打」はこのあたりで行われたといわれます。また、この寺の法華堂は県指定重要文化財でもあります。
補陀洛寺
報国寺
妙長寺
明王院
杉本寺
当山は天平6年(734)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。 次に、仁寿元年(851)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和2年(985)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併せて坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賤の順礼絶えず。時に文治5年11月23日の夜、隣屋より火災起こり、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。 其の後、建久2年9月18日に源頼朝公御堂宇再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ち賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。 時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈眼を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟により落馬等の利罪も止むと云う。 依って頼朝時代より秘仏とされたのである。