浄妙寺

当寺は稲荷山と号し、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。 寺名を改称したのは正嘉年間(1257~59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとくけん)・高峰顕日(こうほうけんにち)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・天岸慧広(てんがんえこう)など名僧が多い。 中興開基は足利尊氏の父貞氏(さだうじ)で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡などで伽藍を形成している。 ◆開山略伝 行勇律師(1163~1241)は相模国酒匂(さかわ)(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房(しょうごんぼう)と称した。幼くして薙髪(ちはつ)出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した。仁治二年七月、東勝寺で没した。 ◆庭園 天正年間(1500年代)僧が一同に茶を喫した喜泉庵があった。 平成三年復興、開席、庭園は杉苔を主とした枯山水である。喜泉庵で抹茶を喫することができる。 ◆墳墓・旧蹟 本堂うらの墓地に足利貞氏の墓(鎌倉市文化財)がある。『新編相模国風土記稿』に「元弘元年九月五日讃岐守貞氏卒しければ茶毘して当寺に塔を建つ」とあり、古くから、当寺中興開基貞氏の墓塔と伝えてきた。貞氏(1331没)は家時の子で尊氏の父。塔には明徳三年(1392)の銘がある。 熊野社は当寺の鎮守で、もと浄明寺地区の村杜。祭神は素蓋鳴尊。例祭は九月十七日である。境内には尊氏の兄高直が建立した延福寺や直義創建の大休寺などもあったが、いまは廃された。

九品寺

九品とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。、極楽往生を願う人の生前の行いによって定められ。上品・中品・下品のそれぞれに、上生・中生・下生があり合わせて九品とされます。 鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。 山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。本尊は阿弥陀三尊です。

光明寺

材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。 開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第4代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。 元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。 10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。

妙法寺

ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を非難したため草庵が焼き打ちされた『松葉ヶ谷の法難』の場所もこのあたりであるとの伝承があります。 のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。 護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。 ◆松葉谷妙法寺の縁起及び沿革 ◇当山は建長五年(1253)日蓮大聖人が安房より鎌倉に来られ、初めて松葉谷に草庵を結ばれた日蓮宗最初の精舎であります。そして、文応元年(1260)八月二十七日松葉谷法難にあわれる等、身延山に入山される迄二十数年にわたり大聖人が起居された霊蹟で、はじめ松葉谷御小庵と称しのち法華堂と号しました。 ◇四祖の日静上人の高弟、日叡上人は大塔宮護良親王の御子、幼名を楞厳丸(りようごんまる)と呼ぴ、仏門に入って楞厳法親王妙法房日叡と名のられたお方であります。 上人は父宮護良親王の亡くなつた所であり、日蓮大聖人に由縁深い鎌倉の地を慕って、松葉谷に来り延文二年(1357)御小庵の跡に堂塔伽藍を復興されました。そして楞厳丸(りようごんまる)の名にちなんで楞厳山妙法寺と称し、山頂に、父宮母官の墓を建てその冥福を祈られました。 ◇以来勅願寺となり日蓮宗の名刹として法燈がうけ継がれ、永正の頃十一世日澄上人は「日蓮上人註画讃」「法華啓運抄」等いく多の著書を著わし、学僧として世に知られました。 ◇化政期に及び三十二世日応上人、三十三世日慈上人は共に徳川光圀創建の水戸三昧堂檀林(さんまいどうだんりん)出身の傑僧でありましたが、寺門の興隆につとめ十一代将軍家斉及び奥女中、水戸徳川家、肥後細川家、加賀前田家、犬山成瀬家、紀伊徳川家及ぴ江戸市民の帰依を受け、日本最初の川施餓鬼を隅田川の永代橋上流水域で行ない、又しきりに江戸に出開帳を行ないました。 十一代将軍家斉またしばしば妙法寺に詣で、そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたと言われます。明治中期まで境内に将軍御成の間が存しました。 ◇貞和元年(1345)日静上人の代に足利尊氏のすすめもあり松葉谷より京都に移った法華堂が現在の京都大本山本圀寺であります。 ◆日蓮大聖人松葉ケ谷御小庵の旧蹟  鎌倉には最初の御小庵又は御草庵と称する寺が二・三ありますが、明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります。 ◆境内の堂塔 当山の伽藍配置はもと正面苔石段上に釈迦堂があり、総門・仁王門・釈迦堂を結ぶ線を中心として法華堂・鐘棲・奥の院・本堂・宝蔵・庫裡が展開する様式で、これは仏教の教主釈尊を信仰の中心と仰ぐ日蓮宗の教義を具現したものであります。  本堂 本尊は一塔両尊四師。文政年間肥後藩主細川家の建立。  法華堂 本尊は除厄祖師、日叡上人作。文化年間水戸家の建立。  奥の院御小庵趾 日蓮大聖人が通算二十年お住いになった所。  大覚殿 中央に釈尊、左に妙法稲荷大明神、右に熊本城天守閣にまつられていた清正公の尊像(細川家寄進)を安置。  御分骨塔 当山開山日蓮大聖人、二祖日朗上人、三祖日印上人、四祖日静上人の御供養塔。  護良親王御墓 後醍醐天皇第一二皇子。建武二年薨。御年二十八。  日叡上人御墓 当山五世。護良親王御遺子。 南の方御墓  日叡上人母君。藤原保藤の娘。新按察典侍。 ◆日蓮大聖人と白猿 文応元年8月27日の宵のこと御小庵で日蓮大聖人が夕べの読経をしておられますと、つと衣の袖をひくものがあります。何ごとかとご覧になりますと、それは一匹の白猿ではありませんか。猿はなおも大聖人の袖をひいていづこかへご案内しようといたします。猿のみちびくまゝに山中に分け入られますと、しばらくして小庵のかたで人々の、ののしりさわぐ音がいたします。 これは自分に危害を加えようとするくわだてがあって、猿が知らせてくれたにちがいない『礼の一言も・・・』ど思われてあたりを見廻すともう猿の姿はありません。 ふと近くには山王権現の祠があります。『猿は山王様のお使い』と聞いているが、今宵は自分を助けるために猿をおつかわしになったのかと思い、山王の祠に一礼し『法華経の行者は必ず天が之をたすける』とあるのはこのことであると、ますます不惜身命のお志をかためられたと伝えております。 ◆除厄生姜 文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷法難の際、宗祖日蓮大聖人が暴徒の襲撃をお猿畠にさけられた時、白猿か山中のしょうがを大聖人に捧げました。宗祖はこのしょうがを召し上って英気を養われお猿畠よりさらに下総に移られて無事に厄をのがれられたのであります。 以来当山では毎年松葉ヶ谷法難会(8月27日)、龍口法難会(9月12、13日)には御宝前にしょうがを供え『除厄しょうが』として一般参詣者にもこれを供養するならわしとなっております。このしようがを食して除厄を祈願すると身体健全、無病息災の果報が得られるので、当日は多数の善男善女が引きも切らずに参拝に集まります。 ◆妙法寺 松葉が谷楞厳山妙法寺といい、日蓮はここに御小庵を建て法華経(蓮のごとき正しい教え)を説いた。五世日叡の父は護良親王で、祖父は96代後醍醐天皇である。山上に護良親王の墓である。 ◆松葉ヶ谷御小庵跡 建長5年4月(1253)日蓮聖人は安房国清澄寺で日蓮宗を開き、同年夏鎌倉名越に来られ小庵を結び題目を高唱し、立正安国を力説し、文永8年9月(1271)まで布教伝導の拠点とされた庵の霊跡であります。 ◆護良親王 後醍醐天皇の皇太子 当山五世日叡上人の父君 建武の中興の成就に力を尽し、征夷大将軍となったが、のち鎌倉二階堂に幽閉され、建武2年(1335)7月23日波瀾万丈の生涯を終えられた。御年28才。