金剛山寺(矢田寺)

矢田寺は、奈良県大和郡山市にある高野山真言宗の寺院。山号は矢田山。正式の寺号を金剛山寺という。 別名「あじさい寺」とも呼ばれ、境内には約10,000株、約60種のアジサイが植えられている。 さらに矢田寺大門坊では、古くより容眞御流華道の家元として、華道研究も盛んに行われている。(Wikipedia)

石上神宮

石上神宮は、大和盆地の中央東寄り、龍王山の西の麓、布留山(標高266メートル)の北西麓の高台に鎮座し、境内はうっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。北方には布留川が流れ、周辺は古墳密集地帯として知られています。 5083

長岳寺

この寺は、淳和天皇勅願によって天長元年(824年)6月に空海(弘法大師)が開基したと伝える真言秘法の大道場と知られ、かつては本堂の外に五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、愛染堂、大師堂、宿堂及び寺中坊舎42坊、外客坊、浴室などがあった。 普賢院記録によれば、嘉禄元年(1225)8月12日西大寺の中興、興正菩薩が当時別院律家霊山院の静慶に不動弥陀胎蔵秘道場観を受けている。また正中年中には奈良興福寺大乗院門跡の聖信、明応年中には同門跡慈尋がそれぞれ本願となっている。 中世には広大な寺領を有し、室町時代の乱世には、場本氏の外護に預かったが、応仁の乱、また文亀3年(1502)2月の兵乱に仏閣は炎上、天正8年(1580)の指出にさいしては高300石であったが、秀吉の時に寺領を没収された。 しかし、慶長7年(1602)8月徳川家康は由緒を尋ね寺禄100石を寄せ境内地45町歩を附し、以来朱印地として明治維新におよんだ。 この寺も維新の変革で廃絶におよばんとしたが、民間に深く根ざした大師信仰によって寺運をとりもどし今日に至っている。 現在、長岳寺には、平安時代の楼門、同時代の造像銘のある本尊阿弥陀三尊像と旧地蔵院本堂、庫裡、五智堂、大門などの外、鎌倉時代の石仏等がある。 ◆由緒 山の辺の道にのこる長岳寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が大和神杜の神宮寺として創建された古刹であり、盛時には塔中四十八ヶ坊、衆徒300余名をかぞえた。以来、幾多の栄枯盛衰を重ねながらも、千百七十有余年間連綿と法燈を守り続け今日に至っている。千古の歴史を経て文化財も多く、重要文化財としては仏像5体、建造物4棟がある。 大門をくぐり両側に平戸つつじの生垣が続く玉砂利の参道を行くと我が国最古の美しい鐘楼門につく。12,000坪の広くて静かな境内には四季おりおりの花の香りが漂い、いにしえの趣と心の安らぎを求め、多くの参拝者があとを断たない花と文化財の寺である。 ◆阿弥陀三尊 重要文化財  仁平元年(1151) 中尊の阿弥陀如来及び、両脇侍の観世音菩薩、勢至菩薩の三尊は当寺の本尊である。 阿弥陀如来は西方のかなた十万億土に極楽世界をひらき、末法の世に生まれた私達をもお救い下さる仏さまである。また脇侍の観世音菩薩は阿弥陀如来の慈悲の分身であり、勢至菩薩は智恵の分身である。 堂々とした量感、写実的な表現は藤原時代にあって次の鎌倉時代の作風の先駆と云え、慶派に大きな影響を与えた。玉眼を使用した仏像としては日本最古である。 ◆多聞天・増長天 重要文化財 藤原時代 多聞天・増長天は共に元々、インドでは仏教以外の外道の神々であったが、仏教に帰依し仏教を守る守護神としての役割りをはたしておられる。800年を経た現在も色彩がよく残っている。 ◆弥勒大石棺佛 鎌倉時代 弥勒菩薩は今、都卒天で成道をめざして修業されており、五十六億七千万年後に如来となられ私達の世界に下生される。そして輪廻転生する私達の魂を救済されると云う。当寺の大石棺佛は古墳の石材を利用したもので、法量は2米近く如来形である。 ◆大地獄絵 狩野山楽筆 江戸時代初期 十王図、極楽地獄図とも云い、九幅から構成されており、全法量は縦4米、横11米に及ぶ。三途の河、八大地獄、餓鬼・畜生・修羅道十王裁判図などが画面いっぱいに描れ、圧巻である。毎年、秋に佛画展としての他の佛画と共に開帳される。 ◆繍佛阿弥陀来迎図 県指定文化財 南北朝時代 刺繍の一尊来迎図で毎年、秋に佛画展として他の佛画と共に開帳される。 ◆十三重石塔 鎌倉時代 西大寺中興の興正菩薩叡尊の供養塔と云われその為か叡尊ゆかりの文殊菩薩が刻まれているめずらしい石塔である。 ◆そうめん 大和名物の三輪手延べひねそうめんを5月~9月頃は冷やしそうめん、寒くなるとにゅうめんで味わえます。 ◆鐘楼門 重要文化財 平安時代 日本最古の鐘楼門であり、弘法大師当寺創建当初の唯一の建物である。上層に鐘を吊った遺構があるので鐘楼門という。 ◆旧地蔵院 重要文化財 寛永七年(1630) 当山四十八ヶ坊あった塔中の内、唯一残ったもので今は庫裏としてつかわれている。室町時代の書院造りの様式を残している。また同時代の美しい庭園がある。 ◆旧地蔵院本堂 重要文化財 寛永八年(1630) 延命殿とも云われ、普賢延命菩薩を本尊とする庫裏の持仏堂である。二間四面の小堂であるが桃山風で美しい。 ◆大師堂 県指定文化財 正保二年(1645) 当寺信仰の中心である弘法大師像と藤原時代の不動明王を奉祠する。 ◆本堂 天明三年(1783)再建 当寺の本尊である阿弥陀三尊や多聞天、増長天等の仏像や寺宝類を安置する。 ◆大門 寛永十七年(1640)再建 当寺の総門である。また肘切り門の異名があり僧兵と刀鍛治の伝説がある。 ◆五智堂 重要文化財 鎌倉時代 当寺西方約1kmの飛び地境内にあり、その形から傘堂あるいは眞面堂ともよばれる。真ん中に太い心柱がありこれによって建物のほとんどの重量が支えられている。心柱上部に四佛の梵字額があり全体で五智如来をあらわしている。

室生寺

奈良時代末、皇太子山部親王の病気平癒のために、五人の僧が室生山中で延命法を修し、病を治されたことにより、興福寺の僧、賢憬が朝廷の命により国家の為に室生寺を創建、その後修円が伽藍を整えたといわれている。 5088

聖林寺

聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。 聖林寺は桜井市街地の南方、北方に奈良盆地を見下ろす小高い位置にある。伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺のはるか南方の山中に位置する。 聖林寺の近世までの歴史は不明の部分が多いが、江戸時代には性亮玄心(しょうりょうげんしん)が三輪山平等寺の遍照院を移して再興したという。 江戸中期には文春諦玄により現在の本尊・子安延命地蔵菩薩像が安置された。明治の神仏分離令の際に、三輪明神(大神神社)神宮寺の大御輪寺(だいごりんじ、おおみわでら)本尊の十一面観音像が聖林寺に移管された。

長谷寺 登廊

◆仁王門(重文) 長谷寺の総門で、額は後陽成天皇の御宸筆、楼上に十六羅漢、両脇に仁王像を安置。初めは平安時代、一条天皇の御代。幾度か火災にあい、現在のは明治十八年(1885)の再建。 ◆登廊(重文) 百八間、一二九九段、回廊形式の登廊。初めは後朱雀天皇の長暦三年(1039)春日大社の社司中臣信清が子の病気平癒御礼に寄進したもの。現在の第一、第二登廊は明治二十二年(1889)の再建。長谷型灯籠が気品をそえています。

長谷寺 五重塔

当山は山号を豊山(ぶざん)と称え、寺号を長谷寺(はせでら)と申します。 「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地は昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)などと美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。 朱鳥(あかみどり)元年(686)道明上人は天武天皇のおんために銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)を西の岡に安置され、のち神亀四年(727)徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。 上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。 現在長谷寺は真言宗豊山派の総本山として、また西国三十三観音霊場第八番札所として、全国の末寺三千余ケ寺、檀信徒はおよそ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」として多くの人々の信仰をあつめています。