橘寺

当寺は、聖徳太子様のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があり、その第四皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。太子は大変深く仏法をご信仰になり、自ら仏典の講義をされ注釈を加えられたのが三経義疏で、現在も保存されている。33代推古天皇14年秋7月(西暦606)に、天皇の仰せにより、勝鬘経を三日間にわたりご講讃になった。その時大きな蓮の花が庭に1mも降り積もり(蓮華塚)、南の山に千の仏頭が現れ光明を放ち(仏頭山)、太子の冠から日月星の光が輝き(三光石)、不思議な出来事が起こり、天皇は驚かれて、この地にお寺を建てるよう太子に命ぜられた。 そして御殿を改造して造られたのが橘樹寺で、聖徳太子建立七ヶ大寺の一つに数えられた。当初は東西八丁(870m)南北六丁(650m)の寺地に、金堂、講堂、五重塔を始め66棟の堂舎が建ち並んでいた。天武天皇9年(西暦681)尼房失火の為十房焼いた記録があり(日本書紀)、当時尼寺であったのか。光明皇后より丈六の釈迦三尊、淳和天皇が薬師三尊をご寄贈になり、不断法華転読及び法華八講が修法せしめられた。法隆寺の金堂日記の中に「橘寺より小仏四九体、永暦二年(西暦1078)十月八日迎え奉った」と記されており、玉虫厨子を移したのもこのころか。近衛天皇久安4年(西暦1148)5月15日雷火のため五重塔焼失。60年後鎌倉時代文治年間三重塔再建、元興寺より四方仏を迎え奉ったなどの記録あり。後柏原天皇永正3年(西暦1506)、多武峯大衆により焼かれ全く昔日の面影を無くしてしまった。江戸時代は正堂、念仏堂共に大破し僧舎一棟のみと記されている。現在の堂は、元治元年(西暦1864)多くの人々の力により再建実現したものである。昔は法相宗であったが、江戸中期より天台宗になり比叡山延暦寺の直末で仏頭山上宮皇院橘寺、別名菩提寺とも言われている。 ◆田道間守 日本書紀によると、11代垂仁天皇の時勅命を受けてトコヨの国へ不老長寿の薬を求めに行った田道間守が、十年の長い間苦労してようやく秘薬を捜し求め、持ち帰ったところ、天皇は既にお亡くなりになっていた。このとき彼が持ち帰ったものを「トキジクノカグノコノミ」といい、この実を当地に蒔くとやがて芽を出したのが橘(ミカンの原種)で、それからこの地を橘と呼ぶようになったと伝えられている。また彼は、黒砂糖をも持ち帰り橘と共に薬として用いたので、後に蜜柑・薬・菓子の祖神として崇め祭られるようになった。菓子屋に橘屋の屋号が多く用いられるのは、この縁によるものである。 ◆二面石 飛鳥時代の石造物の一つで、太子殿の左の方にあり、人の心の善悪二相を表したものといわれている。 ◆蓮華塚 勝鬘経講讃の時降った蓮の華を埋めたところで、大化改新の時これを一畝(三六坪・・約一〇〇㎡強)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚とも呼ばれている。 ◆黒の駒 太子の愛馬で空を駆け、達磨大師の化身といわれる。仏頭山麓の地蔵菩薩の傍らにその姿をとどめ、災難厄除のお守りになっている。 ◆五重塔跡 本坊の門の前に土壇がある。五重塔跡で中心には大きい珍しい形をした心礎があり、直径約90cm、深さ10cmの柱の入る孔、その円孔の三方に半円形の孔(そえ柱孔)が掘ってあり、現存すれば約38m余りの五重塔が建っていたことになる。 ◆往生院 阿弥陀三尊を本尊とする往生院は、太子の念仏精神を今日に生かさんとして、念仏写経研修道場として平成9年に再建され、多目的道場として活用されている。また、道場内の格天井には著名なる画家のご協力により華の天井画が二百余点奉納され、華の浄土の様相を呈している。(各種研修会、講演会などにご利用頂けます。事務所までお間い合わせ下さい。) ◆精進料理 当寺ではオリジナルの精進料理が予約申込によりご試食頂けます。但し十名以上で十日前までに申し込んで下さい。

岡寺

天智2年天智天皇の建立勅願寺なり。 大唐の稽首薫閻浮檀金、尺二、六臂の観音を鋳し参ず。春日は尊像を御胸に蔵せる丈六の大像を、三国霊場の土を以てし、開基義淵大僧正開眼す、又孝謙帝の勅諚により道鏡法師七堂伽藍を成就す。 本尊 如意輪観世音菩薩 西国三十三所 第七番札所 岡寺 御詠歌 けさ見れば つゆ岡寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり ◆創建の伝説と義淵僧正 633年(天智天皇2年)、草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建千三百有余年の歴史を持っている。 このため本尊や義淵僧正像など国宝、重文七件ほか多数の宝物がある。 義淵僧正は奈良東大寺の基を開いた良弁僧正や菩薩と仰がれた行基、その他奈良時代の仏教を興隆した多くの先駆者の師として知らている。 また「扶桑略記」(平安時代の史書)によると、義淵僧正の父母は子宝を観音に祈った。その結果生まれたのが義淵。この有り難い話を聞かれた天智天皇は岡の宮で義淵を草壁皇子と共にお育てになった。 ◆厄除け信仰と龍蓋寺 義淵僧正は優れた法力の持主でもあった。 そのころ、この寺の近くに農地を荒らす悪龍がいた。義淵僧正はその悪龍を法力によって小池に封じ込め、大石で蓋(ふた)をした。この伝説が岡寺の正式名称「龍蓋寺」の原点になっており、本堂前に「龍蓋池」が今もある。 こうした伝説は「災いを取り除く」信仰に発展、密教の普及と共に鎌倉時代には「二月(現在三月)初午の日に必ず岡寺に参詣した」という「水鏡」の記録もあるほどで、それまでの観音信仰に厄除け信仰が加わり、日本最初の厄除け霊場が形成された。 ◆西国札所と岡寺(龍蓋寺) 観音さまの御名を呼べば観音さまは三十三の化身により衆上を救済されるとの信仰をもとに、西国三十三所観音霊場巡りが盛んになってから約一千年の歴史がある。 岡寺はその前から観音霊場として栄え、創建以来「熱祷千三百有余年」、常に大衆の幸せを願ってきた。本日はお参りありがとうございました。

安居院(飛鳥寺)

飛鳥寺は第三十二代崇峻天皇元年(588)蘇我馬子が発願し、第三十三代推古天皇四年(596)に創建された日本最古の寺であり、寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺(現在は安居院)とも呼んだ。 近年(昭和三十一年)の発掘調査により、創建時は塔を中心に、東西と北にそれぞれ金堂を配し、その外側に回廊をめぐらし更に講堂を含む壮大な伽藍であった。 本尊飛鳥大仏(釈迦如来像)は、推古天皇十四年(606)天皇が詔して鞍作鳥仏師に造らせた日本最古の仏像である。 旧伽藍は仁和三年(887)と建久七年(1196)の火災によって焼失し、室町以降は荒廃したが、寛永九年(1632)と文政九年(1826)に再建され今日に至っている。 ◆由緒 現在の本堂は古えの中金堂(一塔三金堂)の位置に相当し本尊飛鳥大佛は1390有余年間そのままに座したまうは奇跡の存在といえよう。 平安朝まではより以上に膨張し中世以後天災地変、自然崩壊のため境内は1/20に縮小されたが、この長閑な青垣山こもれる風景に麗しい殿堂があった昔を偲べばうたた感慨無量といえようか。 聖徳太子は橘の藁小屋で生まれたまい、大陸の先生に先進国の学問を受け、その粋を取って国民の守るべき17条憲法を示されたのがこの本尊に誓ってのことであった。 蘇我馬子が決戦の暁、強引に飛鳥寺に着手したことは必然的に飛鳥文化の扉が開けゆく固い約束にもなった。 即ち国家数千年の大計を果し得たことは権力の野望を充した一面見事な光彩を放ち得たといえよう。 驚くなかれ! 佛法最初という寺のいくつかある中でも又、シルクロードの終点といわれる寺のいくつかある中で飛鳥寺こそその終着点であり、日本の起点になったことは先ず疑いなき事実なり。 太子の師恵慈、慧聡が都の本格的なこのお寺に住まわれたことも感激すべき事実である。 大化改新は勿論奈良朝然り、各宗の母胎揺籃の地になったこと、又、世界に誇る万葉文学淵源の地ともいえよう。 既に我らの記憶から遠ざかったけれども、この土、この塵に曾(かつ)て輝かなりし遠祖の香り、血が、汗が滲んでいることを思い起せば心揺さぶられ身の鼓動を禁じ得ない。 土地は枯れ、寺は寂びれて、み佛は傷つけども、領土・民族のあらん限り歴史のふる里ではある。悠久なる前に吾人は一瞬である。一生一度齷齪の中にも、此処に来た一時は大佛前に合掌し、古えの人の心にふれ、語り合い、民族の久しきことを国土の万世なることを願い顧みつつ懐古の情を温めることは報恩の一端ともなるものか。又後代日本を背負う若人の弁えでもあろうか。お互いの行く末無事安泰を黙祷されよ。飛鳥への憧憬、飛鳥への郷愁、此処に来て初めて満喫し得るものか。諸氏の心情果して如何に。