世界遺産。741年、仏教中心の国づくりを進めた聖武天皇の勅願により建立。国力を注いだ事業である大仏鋳造は3年をかけて行われ、752年、開眼供養会が盛大に営まれた。1180年、焼き討ちによって大半の堂塔が焼失したが、重源の勧進で復興。 4949
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東大寺二月堂
元興寺
「元興寺」とは、飛鳥の地に創建されたわが国最初の本格的寺院である「法興寺」が、新京「平城京」に移され、寺名を法興寺から元興寺と改められました。元興寺の創建後、飛鳥の法興寺は「本(もと)元興寺」と称されるようになりましたが平安時代に焼失してしまいました。 本元興寺の跡には、有名な「止利仏師」の制作による「飛鳥大仏」を本尊とする「飛鳥寺(あすかでら)」が建立されております。「法隆寺金堂本尊釈迦如来像」も同じ止利仏師の作です。 現在、元興寺が「奈良町」の一角に存在しておりますが天平時代、奈良町は元興寺の境内という広大な寺域を持つ大寺院でした。 伽藍地は南北に細長く、南北四町、東西二町を擁しており、敷地面積は約九萬六千八百平方メートル(約29333坪)という巨大 寺院だったのです。なお、奈良町は歴史を刻んだ地名ですが通称で行政地名ではありません。 天平時代きっての学僧「智光」が住まいとしていた僧房の一室を、念仏道場として使い極楽坊と称されておりました。時の庶民にとって極楽とは未知への憧れであり庶民信仰を集めるには適したネーミングといえましょう。元興寺の一部だった僧房が極楽坊と変わりましたことは国家鎮護の官寺から庶民の信仰寺院へと変革したことであります。結果、極楽坊は元興寺から離脱して独立の別寺となっていきました。 元興寺は室町時代の土一揆で伽藍の殆どを失い、智光曼荼羅を祀る「元興寺極楽坊」、五重塔を祀る「元興寺観音堂」、「元興寺小塔院」の三寺院に分かれました。それと残念なことに当時、智光曼荼羅は別院で保管されていて建物とともに焼失いたしました。 元興寺極楽坊は江戸時代に西大寺の末寺・真言律宗のお寺となり、現在、国宝指定の本堂、禅室、五重小塔の建造物が存在いたします。 元興寺観音堂は東大寺の末寺で、宗派は当然華厳宗です。土一揆で焼失を免れた五重塔も江戸時代に焼失して塔跡となっております。 元興寺小塔院にいたっては見るも無残な姿です。奈良には文化財が多くて整備に手が回らないのでしょう。 元興寺極楽坊の門標には「元興寺極楽房僧坊」となっております。一方の塔跡のある寺院の掲額には「元興寺」となっており元興寺の寺号を引き継いでおりますが創建当時の遺構は五重塔跡のみとなっており通称元興寺(塔跡)と呼ばれております。元興寺 極楽坊も昭和52年には元興寺と称することにされたらしいのですが通称元興寺極楽坊です。 「古代の寺院」は葬儀の法要は行いませんでした。何故なら当時の仏教には葬儀に関する経典がなかったというより釈迦の考えが葬儀の法要は在家の者に任せよということでした。それが現在、「元興寺極楽坊」には墓地があることから国家鎮護の寺院から庶民信仰の寺院へと刮目すべき変革には劇的なドラマがあったことでしょう。 鐘楼の鐘は金閣寺でお馴染みの足利義満によって京都の相国寺に持って行かれるという厳しい試練にも遭遇いたしました。 昔、南都七大寺では「東大寺」に続く大寺であったという元興寺の面影はなく苦難の歴史が想像されます。 明治、大正、昭和18年までは無住の寺となり、「お化け寺」と呼ばれるくらい荒廃しておりました。 元興寺は寂れるにしたがって寺域内に住宅が建ち並び宅地化が進みました。民家の中にひっそりと元興寺があります。気をつけていないと見過ごしそうです。 元興寺極楽坊をお参りした後、元興寺の境内だった古都の風情を今に伝える奈良町をぶらりと散策されれば古き良き奈良にタイムスリップすることが出来ます。