金剛院

金剛院(こんごういん)は京都府舞鶴市にある真言宗東寺派の寺院。山号は鹿原山、寺号は慈恩寺。本尊は波切不動明王。 三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台である。 秋には、江戸時代に細川幽斎(藤孝)が鶴亀の庭とともに植樹された楓が有名で多くの参拝がある。 『金剛院慈恩寺縁起』(元禄11年・1698年)によれば、天長6年(829年)、高岳親王(たかおかしんのう、799 - 865)が高野山から弁才天を勧請し創建したという。平城天皇の第3皇子の高岳親王は、嵯峨天皇の皇太子となったが、薬子の変に連座して皇太子位を廃された。親王は後に空海の弟子となり、真如法親王とも呼ばれる。本尊は当初は阿弥陀如来であったが、後に不動明王に変わった。縁起によれば永保2年(1081年)、白河天皇が比叡山無動寺から相応和尚作という不動明王像を勧請し再興。久安2年(1146年)美福門院により再々興されたという。

成相寺

成相寺は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、元々は日本古来の山岳宗教の修験場。 ◆由緒 一人の僧が雪深い山の草庵に篭って修業中深雪の為、里人の来住もなく食糧も絶え何一つ食べる物もなくなり、餓死寸前となった。 死を予感した憎は「今日一日生きる食物をお恵み下さい」と本尊に祈った。 すると夢ともうつつとも判らぬ中で堂の外に狼の為傷ついた猪(鹿)が倒れているのに気付いた。僧として、肉食の禁戒を破る事に思い悩んだが命に変えられず、決心して猪(鹿)の左右の腿をそいで鍋に入れて煮て食べた。 やがて雪も消え里人達が登って来て、堂内を見ると本尊の左右の腿が切り取られ鍋の中に木屑が散って居た。 それを知らされた僧は観昔様が身代リとなって助けてくれた事を悟り、木屑を拾って腿につけると元の通りになった。 此れよりこの寺を成合(相)と名付けた。 ◆美人観音 五条の右大臣高藤の子は、観音祈願の授かり子玉若君を大変可愛がり2歳の時四位の侍従の位を得て、丹後但馬の国を与えられた。 小さい時から笛を上手に吹いて居られたが13歳で父母を亡くし孝行な子であったので、一週間笛を吹いて供養していた。 その笛の音を聞いた梵天国の王(仏教の主護神)が、「吾が姫を嫁に差上げよう」と云い、美しく心の優しい姫君を妻に迎え入れられた。 此の話を聞かれた天皇が羨まれて「おまえの妻を内裏に参らせよ」それが出来ねば……と無理難題を申出されたが2人の力で総て叶えられた。 最後の難題「梵天国王直々の御判が欲しい」との事。 中納言は父君に当る梵天国に行き食事を与えられた時、側で人でも鬼でもない飢えた骸骨の様なものが食事を求めた。 慈悲深い中納言は哀れに思い御飯を与えた。 すると一粒千人力と云う米を食べて鎖を切り大空へ飛んで行った。 これが羅刹国のはくもん王(悪鬼)であった。 はくもん王は邪恋していた中納言の妻を奪い羅刹国へ帰った。 中納言は御判を頂いて帰ったが、妻の居ない家や世の無常を感じお髭(モトトイ)を切り出家して願を掛け妻を助けられる様祈った……。 妻を救い出し都へ帰ったが、都の生活を嫌い丹後へ下られ妻は成相の観音様となり、中納言は久世戸の文珠となられた。 そして一切の生物をお救いなされたと、成相観音は美人観音、美人になれる観音様として名高い。 (御伽草子梵天国より) ◆撞かずの鐘 慶長14年(1609)山王賢長は、古い梵鐘にかえ新しい鐘を鋳造する為、近郷近在に浄財を求め喜捨を募った。 1回、2回と鋳造に失敗し、3回目の寄進を募った時、裕福そうな家の女房が「子供は沢山居るがお寺へ寄附する金はない」と険しい目の色で断った。 やがて鐘鋳造の日、大勢の人の中に例の女房も乳呑児を抱えて見物していた。 そして銅湯となったルツボの中に誤って乳呑児を落としてしまった。 此の様な悲劇を秘めて出来上がった鐘を撞くと山々に美しい音色を響かせていた。 しかし耳をすますと子供の泣声、母親を呼ぶ悲しい声、聞いて居る人々はあまりの哀れさに子供の成仏を願って一切この鐘を撞く事をやめ、撞かずの鐘となった。

八角堂

八角堂は、市内最大の前方後円墳である西軍塚古墳の円頂部に建つ、八角形をした珍しい建物です。 現在は正法寺の境外堂宇のひとつであり、本尊阿弥陀如来が安置されています。 建保年間(1213年~1219年)順徳天皇の御願により、石清水八幡宮の社家善法寺祐清が石清水八幡宮の境内に建立したもので、のちに大破して慶長12年(1607年)豊臣秀頼によって再建されました。 明治維新の神仏分離に伴い現在地に移されました。八角円堂ではありますが、正方形の四隅を切りとった八角形です。 720,,京都府八幡市八幡大芝

単伝庵(らくがき寺)

お堂の壁に願い事を書くと叶えられるということから「らくがき寺」とも言われています。 今から200年前、京都妙心寺の単伝和尚が人々の不慮の災難を救うことを発願して、けが除け・厄除の救昔観音を安置し祈祷修繕されたのが単伝寺再興の由来です。 現在、2月節分・5月3日・8月3日・11月3日と年四回箸供養を厳修し、けが除け祈祷箸を授与し、精進料理の接待をしています。 仏教では、世の中のすべては、地・水火・風・空の5つの元素(玉大)の組み合わせによりできているとされています。この玉大を型取った台座(方・円・三角・半月・台形の5つを組み合わせた台座)の上の安置されているのが五大釈迦で、5大の過不足を調整し、全てのものごとを円満に成就し身心の健祥と財福を守護して頂きます。 8月・12月を除く年10回、この五大釈迦にみまもられて坐禅会を行っています。 ◆走り大黒天 南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠正成が武運長久を祈願して寄進した楠木の残り株から刻まれたこの走り大黒天は、にこ やかに微笑みながら蓮華の実の上で袋を担ぎ、走っておられます。参詣する人には開運の本命神、そしてまた、福徳円満を自在に授け る神として信仰されています。

妙喜庵

妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院のことで、山号は豊興山。妙喜禅庵とも称します。「妙喜庵」の寺号は、宋の大慧禅師の庵号からつけられたもので、連歌の祖である山崎宗鑑が住んでいたとの説があります。 この庵には、なんと言っても国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることにつきます。待庵は、日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休が作ったと信じうる唯一の現存している茶室です。