宝積寺(宝寺)

養老7年(723)11月23日、龍神が唐土より万宝第一(何事も叶う)の打出と小槌を我国に伝来されました。神亀元年(724)、聖武天皇は行基菩薩に勅命され寶積寺を建立し、打出と小槌を奉納されました。 しばらくして御本尊大黒天神を印度よりお招きし、お祭り申し上げました。以来、財福・繁栄・増進の神様と崇められ詣されております。 当寺は、木津川・宇治川・桂川の三川合流を望む天王山中腹にあり、その昔大洪水で橋が流出し民衆が途方にくれていたとき、どこからともなく一人の翁が現れ、水面を自由に歩き、見事橋を復元されました。その翁は山に登り、当寺本堂のお厨子に入られました。 以来、本尊の十一面観世音菩薩が翁に化身され、橋をかけられたと評判がたち、橋架観音(はしかけ観音)と呼ばれるようになりました。 天正10年(1582)の山崎の合戦、元治元年(1864)の蛤御門の変に於いて、当寺へ陣地となり戦禍を蒙り、伽藍は一時荒廃しましたが、歴史の重要な舞台ともなり、どの時代にあっても現世利益の信仰はすたれることなく、今日もなお興隆の一途を歩んでおります。

石塔寺

法性山と号します。石塔寺はその名の通り「石塔」が寺歴の始まりです。 この「石塔」は日蓮聖人の法孫、日像聖人が延慶3年(1310)3月8日「南無妙法蓮華経」と題目石塔を建てられた事から始まりました。 日像聖人独特の題目が彫られています。 当初、2間4方の堂宇が建てられ「塔堂」と呼ばれていました。 その後文明年間(1470)には伽藍が整い「石塔寺」と称するようになりました。 元和年間(1615-24)には勧修寺宮御殿を賜り、本堂を再建しまし、またその頃、不受不施の寺院として幕府に願いを出しましたが、寛文6年(1666)に不受不施禁制後は、中本山として妙顕寺に属しました。 その禁制による幕府の迫害に遭った時、当時の寺僧が、豊臣秀吉から賜った御本尊を持ち出し、西国へ逃げ延びた事が、近年判明しました。その御本尊は江戸末期には大分県別府にあり、明治に入り、大分県日田市の妙栄寺創建の御本尊として安置され現在に至っています。 なお、石塔寺現在の御本尊は元禄9年(1696)に開眼されたものです。 宝永6年(1709)当時、近畿、備中に33ヵ寺の末寺を有する寺院になっていました。 明治11年(1878)には鶏冠井興隆寺を合併吸収し、現在は本化日蓮宗の単立本山となっています。 又、「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」と石塔寺の名前に由来する地名が今も向日市に残っています。 毎年5月3日の「花祭り」では、京都府無形民俗文化財の「鶏冠井題目踊り」が、石塔寺、南真経寺、北真経寺の檀家有志(題目踊り保存会)により奉納されます。

光明寺

当寺は西山浄土宗の本山で、寺伝によれば、建久9年(1198)に蓮生法師(熊谷次郎直実)により創立され、法然上人を開山第一世としています。 境内は広く、洛西一の伽藍を誇り、主要な建物は山内に点在して廊でつながれています。応仁、元亀、天正の兵火にあい、江戸時代には享保19年(1734)の火災により焼失し、大半の建物はそれ以後の建立です。 総門をくぐり、美しい石畳の参道を登ると、正面に壮大な御影堂が、その右奥には阿弥陀堂があります。 御影堂は宝暦3年(1753)の再建で、派手な装飾はないが全体的後世の整美性を意匠の主眼としたものです。阿弥陀堂は寛政11年(1799)の建立で、本堂より少し華やかな造りになっています。 御影堂の後方にある御廟は明暦2年(1656)の再建で禅宗様を基調とした華麗な造りです。軒下回りの組物には多くの彫刻が施され、廟内の板壁は飛天や雲、蓮の花などが極彩色で描かれています。 その前にある拝殿は山内では最も古い承応2年(1653)の建築です。御影堂の左下には元文元年(1736)の釈迦堂、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。 天保4年(1833)に建立された講堂は食堂とともに浄土宗寺院でも檀林(仏教の学問所)に関する類例の少ない遺構群であります。 ◆由緒 京都の西南、西山連峰がたおやかな稜線を描き、美しい竹林や杉、松の森に囲まれた粟生の里は、法然上人が初めて「お念仏」の教えを説かれたところです。それから800年、当本山は西山浄土宗総本山、報国山光明寺として法然上人の教えを受け継いできました。総門の前に立つ「浄土門根元地」という石標はそのことを表しているのです。 当山の開山第一世は法然上人ですが、建久2年(1198年)の創建に力をつくしたのは「平家物語」や謡曲の「敦盛」に登場する熊谷次郎直実です。武土として戦乱に生きた直実は自らの罪の深さにおののいていました。しかし、法然上人の「どんなに罪が深かろうと念仏を一心に申せばかならず救われる。」というお言葉に、その場で出家を決意したといわれています。その直実が熊谷蓮生法師として、念仏一筋に暮らした念仏三昧院こそが光明寺の前身なのです。 西山のふもとに広がる光明寺の境内は、秋になると鮮やかな紅に染まる楓の木がたくさんあります。春の桜の華やかさ、初夏の楓の青葉も印象的。 竹林に雪が降りかかる冬の美しさも格別です。境内は紅葉の時期をのぞいては、いつも静かで、何種類もの野鳥のやさしげな声や木々の間を吹き抜けてくる柔らかな風にも気づかれることでしょう。阿弥陀様のお慈悲に包まれでいることを実感できる、本当の意味での「いやしの空間」です。 一日ゆっくりと西山で過ごすなら、当本山と善峰寺や楊谷寺をめぐる「京都西山三山」のルートをおすすめします。西山の自然と、生きた信仰の場である三山を訪れることによって、深い心の安らぎや明日への希望を感じられることでしょう。 ◆宗祖:墨染の聖者・法然上人の教え 月影のいたらぬ里はなけれども、ながむる人のこころにぞすむ この歌は法然上人が阿弥陀仏への信仰を歌に詠まれたものです。阿弥陀仏を「月」に、阿弥陀仏の救いの光を「月影」に、十方世界を「里」に、お念仏申す人を「ながむる人」に譬えています。阿弥陀仏の慈悲の光が届いていない里はどこにもないが、弥陀の慈悲はお念仏者の心にだけ住み着くというのです。これを『観無量寿経』には「阿弥陀仏の光明は遍く十方世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」と説いています。 阿弥陀仏は私を照らしつづけ、私は阿弥陀仏の光明のうちに護られて、そして阿弥陀仏のお慈悲を胸にいただいて、うれしい心地に生きさせてもらうものです。 お念仏申せば極楽に生まれると聞かせていただき、ただマムアミダブツと申すとき、その心に阿弥陀仏はおさとり(月影)を結ばれるのです。 法然上人は「念仏は私が申すことであり、衆生の往生は阿弥陀仏がなすことである」といいます。だから法然上人は、私が往生するか否かを心配するのではなく、私はお念仏を申したか申さぬか、ここを思うように教えられています。 ◆流祖:白木の聖者・證空上人の教え 生きて身をはちすの上に宿さずば念仏申すかいやなからん この歌は、證空上人の教えをあらわす歌です。法然上人のお弟子として阿弥陀仏の教えを伝えられた讃空上人は、「阿弥陀仏のお慈悲はいつも私を照らしてくださっているのだから、生きているうちから、極楽に往生しているような心持ちで過ごしましょう。でなければお念仏を申す甲斐はありませんよ」と歌われたのです。 私たちは仏の思いどころか、親、兄弟など身近にいる人の思いにさえ気づけないものです。しかし、仏の思いはこちらに気づく気づかないとに関わりなく常に働き続けてくださっているのです。仏様の願いを知らない人は、自分の方から仏様の願いに働きかけようとするものです。仏様の願いがいただけてくると、仏様の方から私たちを往生させようという願いと、その願いをかなえるための行が完成していることを知らしめてくださっているのです。命を惜しむわたしを包み込む仏が阿弥陀仏なのです。自力の計らいを一切捨て、漆などによって飾られていない白木のように、全く彩りのない心でお念仏を称えることの大切さを教えられたのです。 ◆御影堂(みえどう) 宝暦3年(1753)に再建された、当山の中心になるお堂。御本尊は法然上人御自作の「張り子の御影」です。これは法然上人が75歳、「建永の法難」と呼ばれる弾圧により四国へ流罪になったとき、弟子の願いに応えて、大切にしていた母君からの手紙を張り合わせて自らの姿を像に作り、形見として与えたものです。 ◆御本廟 法然上人がお亡くなりになられて15年、お弟子たちによって念仏の教えはますます広がっていました。しかし、他宗の僧侶のなかにはそれをよく思わぬ者もあらわれてきました。そしてとうとう、法然上人の墓をあばいて御遺骸を加茂川の地へ密かに移し、荼毘にふされたのです。その御遺骨を安置しているのが御本廟です。 ◆阿弥陀堂 寛政11年(1799)に再建された総けやき造りのお堂。ご本尊の阿弥陀如来像は六尺七寸(約2m)以上もある大きなものですが、熊谷蓮生法師が琵琶湖畔堅田の浮御堂から背負って帰って来たという言い伝えがあります。 ◆釈迦堂と信楽庭(しんぎょうてい) ご本尊は「頬焼の釈迦如来」。淀の水津村の漁師で、悪次郎とあだ名されたほどの乱暴者が、托鉢の僧(実はこのお釈迦様)と出会って心を入れ替えるという物語に登場する仏像です。頬には悪次郎に焼火箸で焼かれた跡という傷が見えます。釈迦堂前の白州に大小18個の石を配した庭は、阿弥陀さまの慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行事の姿を現しているといわれています。また18という石の数は、阿弥陀如来さまが私たちに約束してくださっている48の願いのうちの18番目「念仏往生の願」を象徴しています。 ◆もみじの参道 総門から薬医門をへて玄関へいたるゆるやかな坂道の参道は、両側から楓の木々が大きく枝を伸ばし、紅葉の季節には華やかな紅色のトンネルになります。また、初夏の青葉も心に深く残る美しさです。