浄土宗の寺で、地蔵寺といい、京都六地蔵巡(めぐ)りの霊場である。 本尊の地蔵尊は、平安時代の初期に、参議小野篁(おののたかむら)が、一度、息絶えて冥土(めいど)へ往き、生身の地蔵尊を拝してよみがえったのち、一木より刻んだ六体の地蔵菩薩の一つであるといわれている。 当初、これらの地蔵菩薩は、木幡(こはた)の地に祀られていたが、保元2年(1157)、平清盛によって、都の安泰を祈るため、洛内に通じる六街道の入口の一つに当たるこの桂の地に分祀されたものと伝えられている。 なおこの地蔵尊は、一木の最下部をもって刻まれたもので、世に姉井菩薩と呼ばれている。 地蔵堂の東には、石造薬師如来坐像(鎌倉初期)を安置する薬師堂があり、境内には、石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。 また、昔、このあたりは、桂の渡しに近く、桂大納言源経信(みなもとのつねのぶ)や、伊勢女(いせじょ)等の歌人の住居があったといわれている。
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源光寺
源光寺は唯一全国自由地蔵信仰、信仰の自由総本山根本霊場です。 平安朝、弘仁2年、大宇宙に光明の奇瑞あり、記して創建す。嵯峨天皇の第3皇子、左大臣源常公開基なり。 常磐殿(源光寺旧名)に後白河法皇は参議小野篁公(印綬冥官)の神秘の源光寺本尊(光明地球本尊)を祀る。 不思議神仏冥合の秘跡なりと源光寺伝に伝う。 また源義経公の母、常盤御前の墓がある(歴史、初めての日本一の美女と伝わる、続日本後記)。 そして源光寺は唯一の日本根元本尊(光明地球本尊)を祀る。 善神社、善寺院の結願寺にして大吉祥成就の満願寺である。 地球第一の神聖霊場なり。 すべては地球より生まれ、地球に帰る。 唯一の地球の本尊である光明の源光寺本尊に帰る。 源光寺大祭は毎年8月21日より23日(日昼)。 他に年4回の例祭がある。
印空寺
その昔、俳人松尾芭蕉が「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」と詠んだといわれる広沢池の東200m、「一条山越通」交差点より西へ2軒目にあります。 元禄元年(1688)に印空上人が時の仁和寺門跡覚隆法親王より土地を賜り開山し、明治維新後の荒廃の時期を経て、平成3年(1991)に本堂、山門、庫裡の全てを一新、北山杉、桜、梅、幣辛夷(しでこぶし)、紅葉などが植えられ、作家の冨永航平氏が「二河白道」と名付けられた石庭を取り囲んでいます。 また、「葉書」の語源とされる樹齢300年、高さ15mの多羅葉(たらよう)の樹は京都市保存樹に指定されています。 当寺は印空上人(1692)が美濃国(岐阜県)立政寺から入洛し、時の仁和寺御門跡覚隆法親王猊下より広沢池近くの広大な寺領を賜り、元禄元年(1688)に建立したのが始まりとされます。その後、 中興了海上人(1663~1719)が住持し、寺勢は盛んになりました。 了海上人は土地の人に親しまれ、 ねんねせん子は了海坊にかます 了海坊がこわけりゃ、ちゃとねやれ という子守歌が伝えられています。 明治維新後は次第に荒廃の途を辿りましたが、昭和45年(1970)前住園空瑞元が晋山して寺の復興に努め、浄土宗開宗八百年記念の年、昭和49年(1974)に鐘楼を建立し、平成3年(1991)には檀信徒の協力を得て本堂、山門、庫裡を一新するとともに、境内も二河白道の石庭、北山老杉、梅、辛夷、桜、紅葉などを配し、歴史風土特別保存地区に相応しい山容が整いました。 本尊は阿弥陀知来。この像は地名より「山越の阿弥陀」と称されています。脇仏の観音・勢至の両菩薩像は昭和の人間国宝松久朋琳師の作品です。 本堂西側の仏聞には大黒天を杷っています。この像は明治4年(1871)東京遷都の際、宮中に祀られていたものがその大きさと重さの為に、京都に残されたもので、縁あって一世紀を経て当寺へ安んじられました。 本堂東側の仏間には西国三十三か所各霊場の本尊を安置し、その前には三体の仏像を祀っています。 向かって右側の宝珠観音菩薩立像も松久朋琳師の作で、了海上人遺愛の五色椿を用材としています。左隣の文殊菩薩像は松久宗琳師の作で、一部サルスベリの木を用いた珍しいものです。 左端の弥鞠菩薩立像は、今宿鼎山師の作で桧材が用いられています。