大龍寺(うすさま堂)

1586年(天正14)都に疫病が流行し、然誉上人がうすさま明王の法力にすがり建立。 「うすさま堂」は後年、信者が材木を持ち寄り建立した。 もと中京区の裏寺町にあって花街のきれいどころのお参りが多かったが、1977年(昭和52)に現在地に移転。浄土宗。 トイレの守り神様でもある。 建立:うすさま堂・1804(文化元)年10月24日移築

ニ尊山 西光院

旧嵯峨街道の北、数分で渡月橋に行き着く道を南に行くと西手にニ尊山西光院がある。 西光院は平安末期の僧であり歌人である西行法師が住したと伝えられる2つの庵を起源にする西光寺と旧街道の南にあった西光庵の二寺が、明治42年に合体し、寺を改築。 山号をニ尊山、寺号を西光院と改称し、現在まで約100年その姿を保っている。 御本尊には、山号の通り旧西光寺の阿弥陀如来立像と旧西光庵の阿弥陀如来立像の二尊を祀り、身丈がほとんど同じ阿弥陀仏は並んで安置されている。 また西光院は室町中期より始まる洛西観音霊場の第29番札所である。 子供の成長と祀られた子育観世音菩薩は脇尊として厨子に安置され今も多くの巡拝者がある。 また、庭に目をやると、山門のすぐ東隣に白塀から旧街道に張り出す、たった一本の桜の老木がある。 西行法師お手植の西行桜と言われ、元々境内の北側にあった桜が長い歴史の中で植継がれ、今も地元の人達の目を楽しませている。

遍照寺

廣澤山(ひろさわざん)と号する真言宗御室派の準別格本山である。 当寺は、永祚元年(989)宇多(うた)天皇の孫にあたる寛朝(かんちょう)僧正が円融上皇の御願により広沢池北方の遍照寺山麓に創建したものである。醍醐寺を中心とする小野流では庶民出身僧侶の活躍が目立ったが、仁和寺を中心とする広沢流は名門貴族出身者が多く、当寺はその根本道場として名声を高めた。 かつては広大な寺域と荘厳な伽藍を有したと伝えられるが、14世紀の後宇多天皇の頃からしだいに荒廃した。 寛永10年(1633)仁和寺門跡の内意により、本尊及び寛朝画像等を池裏の草堂に移して遍照寺の名跡を伝えた。 本尊の木造十一面観音立像及び木造不動明王座像は、いずれも一木調成の創建時の遺像で、重要文化財に指定されている。