谷ヶ堂最福寺

松尾、谷ヶ堂、最福寺開山、延朗上人については、元享釋書、太平記、三井寺続燈記、雨月物語等に詳しく記されている。それによると、上人は、但馬国養父郡に生れ、幼にして父母を喪い、元養元年(1144)、15歳にして出家、安元2年47歳の頃帰京、この松尾山麓、神宮寺に住して、最福寺の七堂伽藍を建立された。太平記には、この寺を描写して『奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引き、恰も極楽丈殿七宝荘厳の優姿』とある。その後、源義経が寺の更なる興隆を願い、丹波国亀岡篠村施入を強要したので、上人は已むなくこれを受けたが、邑人には、免租や富民の善政を施す一方、当時流行した悪病難病の治療のため、寺内に浴室を造り、自ら病人の病気を癒す等して、多くの民衆の救済に献身し数多く化益、慈悲行を蹟まれ、松尾の上人として尊敬を集めた。最福寺は、その後の幾度の兵火でさしもの大伽藍も焼失し、再建ならずして現在に至る。※毎月12日午後1時より開帳 「焔の夕べ」(延朗上人、さしのべ観音竹とうろう祭)  12日は延朗上人のご命日にあたり、初春の2月11日の日没より供養を行います。延朗上人は数々の歴史の狭間に生きられ、慈悲深い救いのお上人で、かつては霊元天皇の最福寺行幸があったことでも上人の遺徳を偲ぶことができます。太平記には、延朗上人が立てられた最福寺の景勝を描写して、『奇樹怪石の池上に、都卒の内院を移して四十九院の楼閣を並べ、十二の欄干珠玉天に捧げ、五重塔婆金銀月を引き、恰も極楽浄土の七宝荘厳の優姿』とあるほどの寺院でありましたが、多々の戦乱により、今は延朗上人坐像のみになりました。

瑞光寺

深草山(じんそうざん)と号する日蓮宗の寺である。 この地は、もと極楽寺薬師堂の旧跡で、応仁の乱により荒廃していたが、明暦元年(1655)、元政上人が日蓮宗の寺とし、瑞光寺と名付けたといわれている。 上人は、京都に生まれ、俗名石井吉兵衛と称し、彦根藩に仕えた武士であったが、後に出家してここに草庵を建て、父母を引き取って孝養に努め、学者、文人、又は孝子として知られるようになった。寛文7年(1667)、母親の死の直後に46才で没した。上人の墓は、境内の西隅にあり、遺命によって竹を三本立てただけの簡素なものである。 本堂寂音堂(じゃくおんどう)は、丸みを帯びた萱葺屋根の建物で、寛文元年(1661)に建立されたものである。 堂内に安置する本尊釈迦如来座像は、中正院日護の作で、胎内に法華経一巻及び五臓六腑を形作ったものが納められている。 毎年3月18日には「元政忌」が行われ、上人の遺品等が公開される。

嘉祥寺(深草聖天)

嘉祥4年(851)2月、文徳天皇は先帝、仁明天皇の菩提を弔うために、その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺とし、年号をとって嘉祥寺とした。開山は真雅。元慶2年(878)には定額寺となって官寺の扱いを得、寺域も広大な大寺であったが、平安時代の後期には衰微して仁和寺別院となり、更に室町時代の応仁、文明の大乱により焼亡した。 しかし、寛文年間(1661~1673)に、かつて深草十二帝陵の管理に当たっていた安楽行院を空心律師が再興し、その際、同院境内に聖天尊を祀って嘉祥寺も再興され、更に元禄12年(1699)、勅許を得て本堂が上棟された。 ただし、再興された嘉祥寺は位置も旧寺域とは離れているため、その名を継ぐだけとなっている。なお、堂内には十一面観音や不動明王像が安置されている。 俗に深草聖天と呼ばれ、開運招福祈願の信仰がある。