源空寺

宝海山(ほうかいざん)と号する浄土宗の寺で、円光大師(法然)の霊場25ヶ所の一つに数えられている。 寺伝によれば、建久6年(1195)忍空(にんくう)上人によって、はじめ炭山(すみやま)(宇治市)の地に創建されたが、慶長年間(1596~1615)当地に移された。 本堂には、円光大師座像を安置し、二層からなる山門の階下両脇には、石仏六体地蔵、愛染明王像及び朝日大黒天像を祀っている。 この大黒天像は、豊臣秀吉の持念仏で、もと伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを、一時京町大黒町に預けられたのち当寺に移されたもので、この経過により、当地はもと新大黒町とも呼ばれていた。

日野誕生院

本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。 これが日野誕生院のはじまりである。 当初、この堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められた。 さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。 このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にし、調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。 別堂向かって右側に聖人童形像・歌碑があり、境内地にはうぶ湯の井戸、えな塚がある。 ◆由緒 本願寺第20代広如宗主の文政11年(1828)9月、宗祖親鸞聖人のご誕生の地を顕彰して、ここに一つの堂宇が建てられた。これが日野誕生院のはじまりである。 当初は、宗祖の父君・日野有範卿にちなんで、堂宇を有範堂または宝物堂とも呼ばれたが、その前の本如宗主は、宗祖の顕彰に熱意を示し、学僧にこの地を調査させたり、日野家の菩提寺・法界寺と交渉を持つなどさまざまに尽力されたことがあり、これが次代に実を結んだのである。文久2年(1862)には、その護持のため京都の同行の間に日野誕生講が結ばれた。 その後、第21代明如宗主は、明治11年(1878)この堂宇を日野別堂と改名し、いっそう顕彰に努められたが、さらに大正12年(1923)に立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機として堂宇の一大改造が計画され、第23代勝如宗主の昭和3年(1928)5月に着工、昭和6年3月に別堂が完成し、5月に落慶の法要が営まれた。このとき日野誕生院と改称され現在にいたっている。 宗祖のご誕生を記念する堂宇であるため、その建築様式は平安時代初期の手法によっており、従来の真宗寺院の形態とは大きく趣を異にしている。本堂前庭には三方に回廊をめぐらし、中央に金灯籠をすえ、七間ある本堂前面の中央三間は巻戸、両脇は蔀戸としている。内部には、本尊阿弥陀如来を黒塗の厨子に安置し、右脇壇には宗祖の御影、左脇壇に勝如上人(前門様)の御影。左余間には、父君有範卿の木像を安置している。内陣は折上組入天井で、外陣に相当する両側は襖で区切られ香房の用をなしている。また厨子その他の調度仏具類もみな時代相応の古風によっている。

西岸寺 (油懸地蔵)

油懸山(あぶらかけざん)地蔵院西岸寺と号する浄土宗の寺で、天正18年(1590)雲海(うんかい)上人によって創建された。  地蔵堂には、俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊を安置している。 寺伝によれば、むかし山崎(乙訓郡)の油商人がこの地蔵尊に油を灌(そそ)いで供養し行商に出たところ、商売が大いに栄えたといわれ、以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶うといわれ、人々からの信仰を集めている。 境内には、「我衣(わがきぬ)にふしみの桃のしづくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑がある。 これは、貞享2年(1685)当寺の第3世住職任口(にんく)(宝誉)上人を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを当寺の伏見の名物であった桃にことよせて詠じたもので、碑は、文化2年(1805)に建設された。 なお、地蔵堂は、明治維新の鳥羽伏見の戦いで類焼したため、昭和53年(1978)に再建された。 ◆由緒 浄土宗のお寺で、油懸山地蔵院西岸寺といいます。1590年(天正18年)雲海上人によって創建されました。通称「油懸地蔵」として有名で、町名の油掛町も「油懸地蔵」に由来します。 寺伝によれば、昔、乙訓郡山崎の油商人が当寺の門前で油桶を転がして油を流してしまい、諦めて残りの油を地蔵尊に注いで、そのまま立ち去ったのです。その後、商人は商運に恵まれ、大金持ちになったといいます。それ以来、願いごとがある人は油を注いで祈ると霊験があるといわれ、人々の信仰を集めました。 お地蔵さんは石の仏さまで、立ち姿が浮きでるように彫刻され、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。お顔が美しく、なで肩、大きな胸あきの彫法、錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作といわれています。銘文が刻まれているようですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2センチも厚く積もり、調べようがありません。 境内には、芭蕉が当寺三世任口上人を訪ねた折に詠んだ句の碑もあります。

安楽寿院

真言宗の寺 保延三年(一一三七)鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まる。 開基は鳥羽上皇、覺法法親王を同志に落慶した。保延五年(一一三九)本御堂(ほんみどう)と呼ばれる三重塔が建立され、続いて九躰阿弥陀堂、焔魔堂、不動堂等が建てられた。 保元元年(一一五六)鳥羽法皇(上皇)が本御塔に葬られた。 鳥羽天皇安楽嘉院陵はそのあとである。 保元二年(一一五七)、皇后美福門院は新御塔を建立、ここは後に近衛天皇の遺骨が納められた。 近衛天皇安楽嘉院南陵がそれであり、現在の多宝塔は慶長十一年(一六〇六)豊臣秀頼により、片桐且元を普請奉行として再興されたものである。 現在の安楽嘉院は真言宗智山派に属し、本阿弥陀如来座像(重要文化財)は鳥羽上皇の御念寺仏と伝えられ、胸に卍が記されているため卍阿弥陀とも呼ばれる。 境内は京都市史跡に指定され、平安時代の三尊石仏、鎌倉時代の石造五輪塔(重要文化財)、冠石が現存し、孔雀明王画像、阿弥陀聖衆来迎図、普賢菩薩画像(いずれも鎌倉時代、重要文化財等)を所蔵する。 なお、当院は鳥羽伏見の戦いのおりには官軍(薩摩軍)の本営となったところである。

宝塔寺

深草山(じんそうざん)と号し、日蓮宗に属する。 寺伝によれば、藤原基経(もとつね)が発願し、昌泰2年(899)藤原時平(ときひら)が大成した極楽寺(ごくらくじ)が起りと伝え、当初真言宗系の寺であったが、徳治2年(1307)住持良桂(りょうけい)が日蓮の法孫日像(にちぞう)に帰依して、日蓮宗に改められた。 また、日像が京都に通じる七つの街道の入口に建てた法華題目の石塔婆の一つを、当寺の日像廟所に奉祀したことに因み、寺名を寶塔寺と改称した。 本堂は、慶長13年(1608)の創建で、堂内には、十界曼荼羅・釈迦如来立像及び日蓮・日像の像を安置している。 行基葺(ぎょうきぶき)の多宝塔は永享11年(1439)以前に建立されたもので、室町時代中期建立の四脚門(しきゃくもん)(総門)とともに、国の重要文化財に指定されている。 本堂背後の七面山(しちめんさん)には、寛文6年(1666)に勧請された七福吉祥の七面大明神(しちめんだいみょうじん)を祀る七面宮があり、そこからの眺めも素晴らしい。

石峰寺

百丈山(ひゃくじょうざん)と号し、黄檗宗に属する。 宝永年間(1704~1711)、万福寺の千呆(せんがい)和尚の創建と伝えられ、当初は諸堂を完備した大寺であったが、度重なる災火により堂宇を焼失し、現在の本堂は、昭和60年に再建されたものである。 本堂背後の山には、石造釈迦如来像を中心に、十大弟子や五百羅漢、鳥獣などを配した一大石仏群がある。 これは、江戸時代の画家伊藤若冲(じゃくちゅう)が当寺に庵を結び、当寺の住職密山とともに制作したもので、釈迦の生涯を表している。 なお、境内には、若冲の墓及び筆塚が建てられている。 また、門前より少し西へ行った所にある古井戸は、古くから名水として知られ、「茶椀子(ちゃわんこ)の水」と呼ばれて茶の湯に愛好されている。 ◆百丈山五百羅漢 石峰寺 百丈山石峰寺は、宝永年間(1704~1711)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立された禅道場である。 以後寛政年間に画家伊藤若冲が当寺に草庵を結び、禅境を好み仏世の霊境を化度利益する事を願い、七代密山和尚の協賛を得て安永の半ばより天明初年まで前後十年余をかけて裏山に五百羅漢を造ったのである。 羅漢とは釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教えを広めた数多の賢者を賛嘆する意味で宗・元時代より五百羅漢の作成が見られる。 我国に於ても室町時代以後この五百羅漢の作成が見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性と美を秘めている。当寺の五百羅漢は若冲が磊落な筆法にて下絵を描き、石工に掘らせたもので釈迦誕生より涅槃に至るものを中心とし諸菩薩、羅漢を一山に安置したものである。永年の風雨を得て丸み、苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣を深めている。 明治以後荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により、草を払い径を開き個々の石仏の趣きをみるによく整理されたものである。 ◆伊藤若冲(いとうじゃくちゅう 1716年~1800年) 江戸時代中期の画家。光琳派より宋・元の古画を学び、後写生を基礎として専ら動植物を描き特に鶏画家として有名である。 京都の青物問屋に生まれた彼は、仏教とくに禅への並々ならぬ傾倒を示し、三十歳代半ばより相国寺の大典禅師に参禅、若冲居士の号をえてから、ひたすら禁欲憎のような生活を守り生涯独身を貫き、子を残さなかった。 晩年隠棲者として石峰寺の古庵に住み、米一斗に一画を報い、斗米翁として、寛政十二年九月十日八十五歳の生涯を閉じた。 当山本堂南に若冲の墓と書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が立っている。