建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山である。 建仁2年(1202)、我国の臨済宗の開祖である明菴栄西(みんなんようさい)禅師により創建され、寺名は年号をとってこのように名付けられた。 以後、正嘉2年(1258)に円爾弁円(えんにべんえん)、正元元年(1259)には、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が住んだことで、禅宗寺院として確立し、室町時代には、京都五山の第3位を占めるに至った。 勅使門は、俗に「矢の根(やのね)門」と呼ばれ、切妻造、銅板葺の鎌倉時代後期の唐様建築で、方丈は、銅板葺、単層入母屋造、慶長4年(1599)に、安芸(広島県)の安国寺から移建した室町時代後期の大建築である。 寺宝としては、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の代表作、紙本金地著色風神雷神図、海北友松(かいほうゆうしょう)の紙本墨画竹林七賢図など、桃山時代の貴重な屏風絵、水墨画、障壁画を多数蔵している。 また、毎年4月に方丈で行われる「四頭(よつがしら)の礼(れい)」は、禅宗寺院の茶礼の古態を今に伝えている。 ◆由緒 建仁寺は京五山の一つ、京都を代表する禅寺です。東には東山山麓の緑が映え、西に歩けば鴨の流れ…。 祇園の花街の中にあって、一歩境内に踏み入れればそこはまったくの別世界…静寂な空気が漂っています、数々の宝物に包まれた荘厳な佇まいは八百年の歴史と禅のこころを感じさせます。 日本最古の禅宗の本山寺院  建仁寺 臨済宗建仁寺派の大本山。開山は栄西禅師。開基は源頼家。鎌倉時代の建仁二年(1202)の開創で、寺名は当時の年号から名づけられています。山号は東山(とうざん)。諸堂は中国の百丈山を模して建立されました。創建当時は天台・密教・禅の三宗兼学でしたが、第十一世蘭渓遣隆の時から純粋な臨済禅の道場となりました。八百年の時を経て、今も禅の道場として広く人々の心のよりどころとなっています。 ◆方丈(重要文化財) 慶長四年(1599)恵瓊が安芸の安国寺から移建したもので、優美な銅板葺の屋根が印象的な禅宗方丈建築。 本尊は東福門院寄進の十一面観音菩薩像。白砂に緑苔と巨岩を配した「大雄苑」と称される枯山水の前庭は、大らかな味わいがあります。 ◆三門 溝三門(望闕楼・ぼうけつろう)空門・無相門・無作門の三解脱門。「御所を望む楼閣」という意味で「望闘楼」と名づけられました。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が祀られています。 ◆浴室 寛永五年(1628)三江和尚(諱紹益)によって建立されました。七堂伽藍のひとつで、内部は待合、浴室、土間(火炊場)に三分されています。 湯気で体を温める蒸し風呂で、禅寺では入浴も修行の大切な部分として、厳しい作法が細かく定められています。 ◆勅使門(重要文化財) 銅板葺切妻造の四脚門で鎌倉時代後期の遺構を今に伝えています。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」と呼ぱれています。元来、平重盛の六波羅邸の門、あるいは平教盛の館門を移建したものといわれています。 ◆襖絵 桃山画壇の巨匠・海北友松(かいほうゆうしょう)は建仁寺と関係が深く、彼の描いた襖絵「竹林七賢図」「雲竜図」「花鳥図」等が文化財として建仁寺に数多く残されています。 また、「生々流転」「伯楽」「深秋」「松韻」など、大正から昭和にかけて活躍した橋本関雪画伯(1883-1945)の晩年の傑作も目にすることができます。 ◆茶席「東陽坊」 草庵式二帖台目席。天正十五年(1587)に豊臣秀吉が催した北野大茶会で、利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が担当した副席と伝えられています。 二帖台目席で最も規範的な茶室とされ、茶室の西側には当寺の名物「建仁寺垣」が設けられています。 ◆法堂(はっとう) 明和二年(1765)上棟。仏殿兼用の「拈華堂(ねんげどう)」。五間四間・一重・裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築。 正面須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉尊者・阿難尊者が祀られています、また、その天井には平成十四年(2002)創建800年を記念して「小泉淳作画伯」筆の双龍が描かれました。 ◆風神雷神図(国宝)俵屋宗達筆 紙本金地著色 本図には落款も印章もありませんが、俵屋宗達の真作として、しかも晩年の最高傑作とされています。 二曲一双の屏風全面に金箔を押し、右双に風神、左双に雷神を描いています。 ◆潮音庭 本坊裏にある潮音庭は、中央に三尊石その東には座禅石、廻りに紅葉を配した枯淡な四方正面の禅庭であります。 石組みは東西の渡り廊下を越え、大きな渦潮の流れを形成し見る者をつつみこんでくれます。 作庭/小堀泰巌老大師 監修/北山安夫 ◆建仁寺の主な年中行事 3月15日/涅槃会=釈尊が涅槃に入られた(亡くなられた)事に対する法要。 4月8日/仏誕生会=釈尊の誕生日の法要「花まつり」。 4月20日/開山降誕会(四頭茶会)=栄西禅師の誕生を祝する法要。禅院の茶礼が催される。 6月5日/開山忌=栄西禅師入寂の忌日に厳修する法会。 7月30日/布薩会(ふさつえ)=戒律を守ることに厳格であった栄西禅師伝来の法会。 8月18日/頼家忌=開基の鎌倉二代将軍・源頼家の忌日法要。 11月5日/達磨忌=中国における禅宗の始祖・菩提達磨尊者の忌日法要。 12月8日/成道会=釈尊が苦行の後、明星を見て大悟された事に因み行う法要。 毎月第2日躍/大衆禅堂開設=本坊で午前8時からの2時間。座禅と法話 禅の心と茶の徳を伝える ◆開山栄西禅師 開山の栄西という名の読み方は、寺伝では「ようさい」といいますが、一般的には「えいさい」と読まれています。字は明庵(みんなん)、号は千光(せんこう)葉上(ようじょう)。栄西禅師は永治元年(1141)、備中(岡山県)吉備津宮の社家、賀陽(かや)氏の子として生まれました。14才で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度の入宋を果たし、日本に禅を伝えました。 また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。

来ぬか薬師(薬師院)

織田信長が美濃の斎藤道三の意をくみ天下統一にただ一つ、伝教大師が彫った薬師如来が現存するのは比叡山延暦寺と同院のみである。 当時の住職の夢枕に「一切の病苦を取り除こう。来ぬか、来ぬか」とお告げがあり、来ぬか薬師と称された。 薬木 黄檗樹(きはだ)で製作した疾病退散数珠(具合の悪い所をさするとよい)がある。

善想寺

本地蔵尊は今から1200年前、伝教大師最澄上人自らお彫りになられた大師一代の念持仏(守り本尊)であり、大師亡き後は滋賀県坂本村にまつられた。 この地蔵尊を天正15年(1587)3月23日、当山初代住職がご縁を得て善想寺山門横の堂内にお迎えした。 泥足地蔵、汗出し地蔵とも呼ぶ。 この地蔵尊に祈願しておけば、もし難産だったとき、お地蔵さんが玉のような汗を出して、妊婦の苦しみを引き受けてくれる「汗だし地蔵」と呼ばれ、また、田植え時に急病になった信者に代わって田植えをし、泥だらけになっていたところから「泥足地蔵」とも呼ばれている。 地蔵菩薩像(泥足地蔵尊 汗だし地蔵尊)

大善院

真宗佛光寺派。佛光寺の塔頭。 本尊・阿弥陀如来。南北朝期の建武年間(1334~38)武田明信が東山今熊野に創建し南坊と称していた。 1583年(天正11)本山に移転して塔頭となり、1634年(寛永11)大善院と改称した。 1864年(元治1)の禁門の変で焼失したが、のち再興された。