東山(とうざん)と号する臨済宗相国寺派の寺で、足利将軍義政の隠居所東山殿を遺命によって寺としたものである。 東山殿は、文明14年(1482)から建設を進め、東山文化の粋をつくした数々の仏殿、住宅や庭園が造られた。 しかし、永禄元年(1558)の兵火により、銀閣、東求堂を残して建物が焼失し、元和元年(1615)に現在の寺観が整えられた。 銀閣(国宝)は、長享3年(1489)の建立、こけら葺き二層建てで、下層は心空殿と呼ばれる書院造りの住宅風、上層は潮音閣と呼ばれる禅宗仏殿風の室となっており、観音像を安置する。 実際には銀箔は貼られなかったが、北山鹿苑寺(ろくおんじ)の金閣に対し一般に銀閣と呼ばれる。 金閣に比べて枯淡幽雅な特色が見られ、東山文化を代表する名建築である。 東求堂(国宝)は、文明18年(1486)建立の東山殿の持仏堂で、日常生活用住宅建築の遺構としては最古のものといわれ、内部には仏間、同仁斎(どうじんさい)などがある。 同仁斎は茶室の元祖ともいわれるが、元来は書斎である。 庭園は、西芳寺(苔寺)の庭園を模して義政が作ったものといわれ、上段石組、下段池泉廻遊式の二段からなり、銀閣とよく調和した名園である。 ◆由緒 銀閣寺は臨済宗相国寺派に属する禅寺で、建立は文明14年(1482)室町幕府八代将軍足利義政公による。義政公は、祖父にあたる三代将軍義満公の北山殿金閣(鹿苑寺)にならい、隠栖生活を過ごすため、山荘東山殿を造営。 この東山殿が銀閣寺の発祥である。銀閣寺の名は俗称であり、正しくは東山慈照寺。 義政公の法号慈照院にちなみ、後にこう命名された。 ◆義政公の悲願 銀閣寺は、五山の送り火でしられる大文字山の西、月待山の麓に位置する。東山殿造営当時は、錦鏡池を中心に広がる池泉回遊式庭園の周囲に、大小十二棟の建造物が点在した。その壮麗な景観は、禅の思想と浄土信仰が融合した、義政公の精神世界の投影である。 東山殿当時そのままの遺構が、観音殿(銀閣)と東求堂で、いずれも国宝である。 銀閣寺の象徴とされる観音殿は、一層を心空殿、二層を潮音閣と、それぞれ呼ぶ。 ◆東山文化の伝統 政治の世界から逃れ、ここ東山殿に隠栖した義政公は、芸術三昧の晩年を過ごした。 諸芸道の達人をここに集め、いわゆる東山文化のサロンを形成した。茶道、華道、香道、能などの日本を代表する伝統文化は、この東山文化のなかから生み出された。 その舞台となったのが、東求堂内の同仁斎であり、現存する最古の書院造り、また四畳半の間取りの原型として知られる。 平成5年(1993)に造営された書院には、世界的に評価の高い明治期の画家、富岡鉄斎の襖絵が収められ、東山文化の系譜を今に伝えている。 ◆観音殿(銀閣)(国宝) 鹿苑寺の舎利殿(金閣)、西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、本来、観音殿とよばれた。二層からなり、一層の心空殿は、書院風。二層の潮音閣は、板壁に花頭窓をしつらえて、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式。閣上にある金銅の鳳凰は東面し、観音菩薩を祀る銀閣を絶えず守り続けている。 ◆東求堂(国宝) 義政公の持仏堂。一層の入母屋造り、檜皮葺きの現存する最古の書院造り。南面に拭板敷、方二間の仏間が設けられ、北面には六畳と四畳半の二室がある。北面東側の四畳半は、同仁斎とよばれ東山文化を生み出す舞台となり、また草庵茶室の源流、四畳半の間取りの始まりといわれている。
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南禅寺
臨済宗南禅寺派の大本山で、正応4年(1291)亀山法皇の離宮の地を賜わり、無関普門(むかんふもん)(大明国師)規庵祖円(きあんそえん)(南院国師)によって創建された。 以来歴朝の勅願所として、また、中世五山制度が行なわれると「五山之上(ござんのじょう)」という最高位に列せられ天下の尊崇を得て今日に及んでいる。 勅使門、三門は重要文化財に、大方丈(清凉殿)小方丈は国宝に指定され、内部の襖絵の多くは重要文化財に指定されている。方丈前庭は小堀遠州作「虎の子渡し」といい代表的な枯山水庭園として有名である。 ◆由緒 臨済宗南禅寺派の大本山で、正しくは太平興国(たいへいこうこく)南禅禅寺という。 亀山天皇が大宮院(おおみやいん)(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を、正応(しょうおう)四年(1291)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師(だいみんこくし))を開山として寺に改めたものである。建武(けんむ)元年(1334)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一位となり、更に足利義満によって五山の上(じょう)という最高位に位置付けられ、隆盛を極めた。 方丈(国宝)は大方丈(清涼殿)と小方丈から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。小方丈には狩野探幽(かのうたんゆう)の筆といわれる「群虎図」(重要文化財)があり、「虎の間」と呼ばれている。また、大方丈の前庭は小堀遠州(こぼりえんしゅう)の作とされる代表的な枯山水庭園で、「虎の子渡し」として有名である。 禅宗様の巨大な三門(重要文化財)は藤堂高虎(とうどうたかとら)が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。境内の南東には、琵琶湖疏水の流れる煉瓦造(れんがづくり)の水道橋「水路閣」が美しく佇(たたず)んでいる。 ◆三門 南禅寺の三門は天下竜門と号し、上層の楼を五鳳楼と云う。日本三大門の一つで有名である。開創当時のものは永仁三年西園寺実兼の寄進によって建立され、ついで応安年間新三門に改築されたが文安四年の火災で焼失した。 現在の門は藤堂高虎が寛永五年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔うために再建したものである。 入母屋造り、本瓦葺、五間三戸の純然たる禅宗式三門の形式を備え、その高さ約二十ニメートルで左右の山廊より昇降する楼上には、勾欄を附した廻り縁をめぐらし、内部には正面に仏師左京等の手になる宝冠釈迦坐像を本尊として、その脇士に月蓋長者、善財童子を安置し、その左右に十六羅漢を配置し、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されている。 天井の鳳鳳、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆である。 又、歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門の伝説で有名である。 門前左方の巨大な石灯籠は佐久間勝之の奉献したもので、高さ六メートル余りあって、大きさでは東洋第一である。
本光寺
三善院
大通寺
清和天皇の第6皇子貞純親王の御子、六孫王経基(ろくそんのうつねもと)の子満仲(みつなか)が父の墓所に一宇を建立したのが大通寺の起こりといわれる。 その後、260余年を経た貞応(じょうおう)元年(1222)に、源実朝(さねとも)の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹(ぼんさつ)を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。 実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したという。 後、十六夜(いざよい)日記の著者阿佛尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したという。 足利尊氏・義満を初め織田・豊臣氏の崇敬もあつく、徳川氏代々も大いに興隆につとめ、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。 東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。 明治44年(1911)には旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して現地に移転し逼塞(ひっそく)した。 創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。 実朝木座像、本覚寺置文2巻、阿佛尼真蹟、阿佛塚など国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。
善光寺
真如院
延寿寺
福田寺
新善光寺
来迎堂(らいこうどう)と号する浄土宗の寺である。 本尊の阿弥陀如来像は、善光寺(長野県)の創建者である本田善光の子、義助によって善光寺の阿弥陀如来像の分身像として造られたものと伝えられている。 当初、この仏像は、南都(奈良県)にあったが、天仁2年(1109)に、堀川松原の地に伽藍が建立され、そこに安置された。 以後、来迎堂新善光寺と呼ばれ、多くの帰依者を集めた。 しかし、応仁の乱後、兵火に遭い、寺地も転々とし、天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により現在の地に移された。 江戸時代には、幕府より御朱印の寺領を受け、天下泰平、国民安全の御祈祷所として栄えたが、天明・元治の大火で類焼してしまった。 現在の堂宇は、その後に再建されたものである。