福田寺

安産と雨乞い祈願のお寺 西山浄土宗の寺で、山号は迎錫山福田寺。今から1300年前の養老2年(718)行基菩薩の開基で福田寺縁起書には、元正天皇(718)代に行基菩薩が夢のお告げによりこの地で「地蔵釈迦」のニ尊を刻み、精舎を建立し「福田寺」と号したという。創建当時は八町四方に七堂伽藍を有していた。 歴代住職のうち、平安時代末期には百人一首の詠み人で有名な歌人、俊恵法師がいる。 俊恵法師は平安時代の歌人として、数多くの和歌を残している。歌の同好の友を集め文学結社「歌林苑」を形成、自らそのリーダーとして月例会などを催したという。 歌友には、有名な源三位頼政、鴨長明などの名もある。

本光寺

新撰組「七条油小路の変」の伊東甲子太郎他三名殉難の地。 新撰組の参謀であった伊東甲子太郎が意見の相違から新撰組から脱党したため、慶応3年11月18日近藤勇の別宅からの帰途、新撰組の襲撃にあい、本光寺門前の門派石(題目石塔)によりかかり絶命した殉難の跡。 その後七条油小路の事件が起きた。

三善院

菅原道真御帰依の十一面観世音菩薩安置。 平安時代の文章博士三善朝臣清行卿が創建した寺。清行の八男浄蔵貴所が初代住職である。 平成14年に二年掛けて改築し、浄土の楽土即ち佛の三千世界・二十五菩薩を雲間に配した極楽世界を表現。内陣の円柱には上り龍・下り龍が黒光茂明画伯により描かれている。 すべての設計は現在の日本を代表する一級建築士、山本良介氏による近代的建築で、厳かな、なんとも言えぬ心温まる本堂です。

大通寺

清和天皇の第6皇子貞純親王の御子、六孫王経基(ろくそんのうつねもと)の子満仲(みつなか)が父の墓所に一宇を建立したのが大通寺の起こりといわれる。 その後、260余年を経た貞応(じょうおう)元年(1222)に、源実朝(さねとも)の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹(ぼんさつ)を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。 実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したという。 後、十六夜(いざよい)日記の著者阿佛尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したという。 足利尊氏・義満を初め織田・豊臣氏の崇敬もあつく、徳川氏代々も大いに興隆につとめ、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。 東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。 明治44年(1911)には旧国鉄の用地となり、六孫王神社だけを残して現地に移転し逼塞(ひっそく)した。 創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。 実朝木座像、本覚寺置文2巻、阿佛尼真蹟、阿佛塚など国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。

新善光寺

来迎堂(らいこうどう)と号する浄土宗の寺である。 本尊の阿弥陀如来像は、善光寺(長野県)の創建者である本田善光の子、義助によって善光寺の阿弥陀如来像の分身像として造られたものと伝えられている。 当初、この仏像は、南都(奈良県)にあったが、天仁2年(1109)に、堀川松原の地に伽藍が建立され、そこに安置された。 以後、来迎堂新善光寺と呼ばれ、多くの帰依者を集めた。 しかし、応仁の乱後、兵火に遭い、寺地も転々とし、天正19年(1591)、豊臣秀吉の命により現在の地に移された。 江戸時代には、幕府より御朱印の寺領を受け、天下泰平、国民安全の御祈祷所として栄えたが、天明・元治の大火で類焼してしまった。 現在の堂宇は、その後に再建されたものである。

市中山 最勝王院 金光寺

時宗。山号、市中山は、平安京の東の市に有った事に由来する。 空也上人が松尾大社の神勅に依り、松尾社前の鰐口半分を頂き、鉦たたき念仏の道場として市屋道場のもとを創建したと伝えられる。 本尊引接阿弥陀如来は定朝作といわれ、花山天皇の御念持佛を空也上人が受けたと伝えられる。もと天台宗であったが、鎌倉期32代唐橋法印胤恵が一遍に帰依し、作阿弥陀佛(作阿)と名を改め時宗とした。 その所在地から市屋道場と呼ばれ、大永年間(1521~1528)には足利義晴が泊ったことから、一夜道場とも呼ばれた。 市の祭神、市姫神社を鎮守とし保護する。 1591年(天正19)豊臣秀吉の行なった京の街の区画整理で、市姫社と共に現在地に移転した。

真如院

織田信長、足利義昭の旧跡。うろこ石を並べた独特の枯山水庭園である。 園内に瓜実灯篭、烏帽子石、呼子手水鉢がある。