放光山(ほうこうざん)と号する真言宗の寺である。 寺伝によれば、建保五年(1217)に上賀茂神社の神主、賀茂能久(よしひさ)が、「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、当寺を創建したと伝えられている。 寺名はこの由緒に因み、神光院と名づけられた。 以後、密教の道場として栄えたが、天保年間(1830~43)に災火により堂宇を焼失した。 明治11年(1878)、和田月心により再興され、以後書院等が整備され、現在に至っている。 本堂に安置する弘法大師像は、大師が自ら刻んだものと伝え、「厄除大師」の名で知られている。 寺宝としては、仏眼曼荼羅図(ぶつげんまんだらず)(重要文化財)などの貴重な文化財を蔵している。 また、境内の茶室は、幕末の歌人大田垣蓮月尼が晩年隠棲していたところとして知られている。
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真如寺
三玄院
妙覚寺
妙覚寺は北竜華具足山と号し、京都日蓮宗名刹三具山および京都十六本山の一つである。 開山は日像上人とされているが、実際には竜華院日実上人が創建した寺である。 はじめ四条大宮、のち二条衣棚(ころものだな)に移ったが、豊臣秀吉の京都都市整理によってこの地に移転した。 この大門は、当寺に残る記録によると、豊臣秀吉が天正18年(1590)に建てた聚楽第の裏門であったものを、寛文3年(1663)当地に移建したものとされているが、この記録よりも少し建築時代は古いという意見もある。 いずれにしても、安土桃山時代の建築であることは間違いなく、寺伝が正確とすれば西本願寺飛雲閣(ひうんかく)、大徳寺方丈、唐門などとともに数少ない聚楽第の遺構である。 城門特有の両潜(りょうくぐり)扉がつけられ、また梁の上には伏兵のできるように空虚が造られてあり、建築史上興味ある建物である。
慈眼寺
当寺は、福聚山(ふくじゅざん)と号する曹洞宗の寺である。 天正16年(1588)鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の北の方(嶽星院(がくせいいん))が、父に当たる熊本城主、佐々陸奥守成政(さつさむつのかみなりまさ)の菩提を弔うため、信秀(信長の父)の伯父に当たる大雲永瑞(えいずい)を請して建立された。 当初、西陣の地に建てられたが、後、寺町丸太町に移され、次いで寛文3年(1663)この地に再建された。 成政は、安土桃山時代の武将で、織田信長に仕え戦功をたてたが、信長歿後の天正15年(1587)、肥後国(熊本県)の検地に際し、住民の反乱を招いた責任を問われ、豊臣秀吉より切腹に処せられた。 境内墓地には、江戸末期の南画家、山本梅逸(ばいいつ)の墓がある。 また、梅逸筆「名花十友図」・「雲龍」、孫億筆「牡丹小禽図」(京都国立博物館寄託)、載文進筆「双鹿図」、曽我蛇足(雪舟の弟子)筆「山水図」等の絵画や、鷹司家愛用の煙草盆等を有する。
善行院
昌福寺
浄土院(湯沢山 茶くれん寺)
慈雲院
報恩寺(鳴虎)
前身は定かではないが、室町時代中期までは八宗兼学の寺院として一条高倉付近にあったが、後柏原天皇の勅旨で、1501年(文亀1)慶誉が再興、浄土宗寺院となる。 天正年間(1573~92)現在地に移った。 豊臣秀吉が寺宝の虎の図を聚楽第に持ち帰ったが、夜毎吠えて眠れず、寺に返したという。 「鳴虎図」に四明陶いつの署名があり、宋か明の時代に中国で描かれたと推定される。 門前の石橋は秀吉の侍尼・仁舜尼の寄進で、擬宝珠に慶長七年の銘がある。重文の梵鐘は平安時代末期の作で撞かずの鐘という。 客殿に黒田長政が死去した部屋があり、長政の位牌と、その父・官兵衛(如水)の位牌が安置されている。 観世流家元歴代や、志野流香道家元蜂谷家歴代の菩提寺で、仁舜尼や福山藩祖の阿部正勝等の墓碑を併祠している。