林光院

足利三代将軍・足利義満が四代将軍義持の弟義嗣の菩提を弔うため、夢窓国師により開創されたという古刹。 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの際、伊賀に隠れていた島津義弘を、親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、薩摩に帰れるよう困難極まる逃避行を助け、海路護送して無事薩摩に帰国させ、その功により薩摩藩の秘伝調薬方の伝授を許される。 そのため薩摩藩とも関係が深い。

五台山 法泉院 竹林寺

浄土宗西山禅林寺派・永観堂の末寺。 1279年(弘安2年)、顕意道教上人(時宗の一遍上人が一歳年下の兄弟僧)の開基以来730年余の歴史を持つ古刹。 本尊、阿弥陀如来。乾第十五番札所で藤原時代初期の作と伝えられている一木等身の十一面観世音菩薩を安置。 但馬の生野の変(1863年・文久3年)で捕らえられ処刑された平野国臣や三条小橋の池田屋騒動(1864年・元治元年)で新撰組に捕えられた古高俊太郎ほか勤皇志士37士の墓がある。

総見院

大徳寺の塔頭。 豊臣秀吉公が織田信長公を菩提を弔うために建てた寺院とされる。 本堂には信長公の木像があり、作者は運慶・湛慶の流れを組む康清によるものとされる。

大聖寺 (旧御寺御所)

大聖寺は、かつての室町幕府の跡地に建つ天皇家ゆかりの尼門跡寺院。 室町幕府は、花の御所とも言われたことから、御寺御所とも称される。 開基は、日野宣子。足利義満の正室、日野業子の叔母であり、光厳天皇の妃。

天寧寺

山号は萬松山(ばんしょうざん)と号し、曹洞宗に属する。 当寺は、もと会津(福島県)城下にあったが、天正年間(1573~1592)に、天台宗松陰坊の遺跡といわれるこの地に移転されたと伝えられている。 その後、天明の大火により堂宇を焼失したが、本堂は文化9年(1812)に、書院は天保14年(1842)に再建された。 本堂には、仏師春日作と伝える本尊釈迦如来像を、観音堂には後水尾天皇の念持仏聖観音像及び東福門院の念持仏薬師如来像を安置している。 境内墓地には、江戸時代の茶人として有名な金森宗和(かなもりそうわ)、剣道示現流の開祖といわれる善吉和尚(ぜんきつおしょう)らの墓がある。 また、山門を通して眺める比叡の秀峰は、あたかも額縁に入れたように見えるところから、山門は「額縁門」と呼ばれて親しまれている。

智恵光院

浄土宗。通名、「智恵光院通」の由来である。1294年(永仁2)五摂家の一つ鷹司家の始祖鷹司兼平が知恩院8世如空(如一国師)を開基に自らの菩提寺を建立したのを創始とする。 当初の創建地は不明で、度々の類焼により何度か転地を重ねているが、詳細は不明である。 現在の本堂は1855年(安政2)の再建。本尊の阿弥陀如来像は安阿弥(快慶)作と伝える。また、地蔵堂の六臂地蔵像は小野篁作と伝える。 ◆由緒 称念山平等寺(びょうどうじ)といい、浄土宗の寺である。 永仁2年(1294)鷹司(たかつかさ)家の始祖関白鷹司兼平(かねひら)が自家の菩提寺院として、如空(にょくう)国師を開山に請じ創建したのが当院の起りと伝える。 のち、聞益(もんえき)上人によって塔頭も整えられ、京師七光院の一つとしてますます隆盛を極めた。 しかし、享保15年(1730)年の西陣焼けや天明8年(1788)の両大火ですべて焼失し、その後、漸次再興されたが、第二次世界大戦中、強制疎開で塔頭四院も廃寺とされ、今の規模に縮小された。 現在の建物は天明8年以降の再建で、本堂には本尊阿弥陀如来像を祀る。 また、小野篁(たかむら)作と伝えられる六臂(ろっぴ)地蔵像を安置した地蔵堂、弁財天を祀った小堂などがある。

称念寺(猫寺)

本空山(ほんくうざん)と号し、浄土宗知恩院派に属する。慶長11年(1606)茨城県土浦(つちうら)城主松平伊豆守信吉(いずのかみのぶよし)が師僧嶽誉(がくよ)上人のために建立した寺で、上人は同宗捨世(しゃせい)派の祖・称念上人を開山とし寺号を称念寺と定め、自らを中興開基(ちゅうこうかいき)とした。 当時に葬られた松平信吉の母が徳川家康の異父妹であったので寺紋を徳川家定紋、三ッ葉葵とした。 寺伝によれば、三代目住職の頃、松平家と疎遠となり寺は荒廃していたが、ある夜、帰宅した住職は、愛猫が美姫に化身して舞うのを見て怒り、これを追放した。数日後、猫が住職の夢枕に立ち松平家との復縁を告げ、住職に報恩し、寺は立派に再興した。 以後、寺では猫の霊を厚く守護し、本堂前の老松は猫を偲んで植えたものである。 このことから称念寺はいつしか「猫寺」と呼ばれるようになったという。なお、本尊お内仏来迎仏阿弥陀(ないぶつらいこうぶつあみだ)像は平安中期の高僧恵心僧都(えしんそうず)の作といわれる。

佛陀寺 (仏陀寺)

大蔵院と号し、朱雀・村上天皇を開基とする勅願所で西山浄土宗に属する。 天慶9年(946)、朱雀天皇が皇位を村上天皇に譲位の後、父醍醐天皇の菩提を弔うために日蔵道賢上人を戒師として落師し、「仏陀寿」と号して朱雀大路の仙洞朱雀院において仏事を修した。 朱雀天皇崩御の後、村上天皇がその仙洞朱雀院を寺に改め、先帝の遺志をついで別院大蔵院を建立し、先帝の法号に因んで仏陀寺と称したのがこの寺の起こりである。 その後、応仁の乱で焼失したが、邦諫上人が後土御門天皇の帰依をうけ文明8年(1476)に土御門西洞院の地に中興し以来、勅願所となり、新たに浄土門西山西谷流を伝える寺院となった。 現在の地に移ったのは、秀吉の御土居築造の頃で、当時の建造物は万治4年(1661)と天明8年(1788)との再度の大火に類焼したため、現在の堂宇はその後の造営。 本尊は、平安時代後期の制作と推定される重要文化財で説法印の木造阿弥陀如来坐像。温和で端正な雰囲気を持つ定朝様式である。

西園寺

宝樹山竹林院(ほうじゅざんちくりんいん)と号する浄土宗の寺である。 元仁元年(1224)、藤原公経(きんつね)が、衣笠山の麓に、山を背にして苑池を造り、その池畔に、本堂、寝殿など壮麗な堂宇を建てて、西園寺と称したのが当寺の起りである。 以来この寺名が子孫の家名となり、当寺も西園寺の北山山荘として子孫に領有された。 しかし、足利義満(よしみつ)が、北山殿(金閣寺)を営むに当ってその地を所望したため、室町(上京区)に移り、さらに天正18年(1590)この地に移転した。 現在の本堂は、天明の大火(1788)後の再建で、正面には、明治・大正・昭和の三時代に亘って政界で活躍した西園寺公望(きんもち)の筆による寺号の額を掲げている。 また、堂内には恵心僧都(えしんそうず)作と伝える本尊阿弥陀如来像(重要文化財)を祀り、地蔵堂には、旧地の北山にあった功徳蔵院(くどくぞういん)の遺仏と伝える地蔵菩薩像を安置している。