Tag: 寺院
芳春院
当院は,慶長13年(1608年),加賀の前田利家の夫人芳春院が,玉室宗泊を開祖として建立した大徳寺の塔頭で,前田家の菩提寺である。建物はその後火災に逢い,現在の本堂は明治初年に建てられたものである。 本堂背後には,飽雲池を前にした二重の樓閣呑湖閣があり,金閣,銀閣と同様,樓閣山水庭園として名高い。 呑湖閣は,元和3年(1617)に前田利家の子利長が小堀演習に依頼して建てたものと伝えられる。池の上に架かる打月橋には,開祖玉室の筆による「打月」の二字の額を掛けている。 池中には,かきつばたやすいれんが多く,花時は見事である。 庭園は度々改造されてはいるが,なお創建時の面影を伝えている。 墓地には,芳春院の霊屋,かの東寺百合文書の整理を行った前田綱紀の霊屋をはじめ,前田家代々の墓がある。 ◆由緒 加賀藩主・前田利家の正室まつが創建した大徳寺の塔頭寺院で、平成28年に400年遠忌を迎えるまつの法号から寺名がつけられた。 「呑湖閣(どんこかく)」(内部は非公開)は、「金閣」「銀閣」「飛雲閣(ひうんかく)」と並んで「京の四閣」の一つとも称される優美な二重楼閣。 利家の子・利長が、小堀遠州(こぼりえんしゅう)に依頼して建てたものといわれ、「飽雲池(ほううんち)」とそこに架かる「打月橋(だげつきょう)」とともに見事な楼閣山水庭園を作り上げている。 また、芳春院の木像や前田家歴代の御霊牌を祀る本堂の前庭は、「花岸庭(かがんてい)」と名付けられた端正な枯山水庭園である。
首途八幡宮
宇佐神宮(大分県宇佐市にある八幡宮の総本宮)から八幡大神を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・比咩大神(ひめおおかみ)・息長帯姫命(おきながたらしひめ)(神宮皇后)を祭神とする。 大内裏の北東に位置するため王城鎮護の神とされ、もとの名を「内野八幡宮(うちのはちまんぐう)」という。 宇佐八幡宮を勧請したのが始まりと伝えられ、誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神天皇)・比咩大神(ひめおおかみ)・息長帯姫命(おきながたらしひめ)(神宮皇后)を祀る。 かつてこの地に金売吉次(かねうりきちじ)の屋敷があったと伝えられ、源義経が奥州平泉に赴くに際し、道中の安全を祈願して出立したといわれる。 「首途(かどで)」とは、「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮(かどではちまんぐう)」と呼ばれるようになった。 この故事により、特に旅立ち、旅行安全の信仰を集める。
妙顕寺
貝足山と号し、龍華院ともいう日蓮宗の大本山の一つである。 日像上人が日蓮聖人の遺命を受け、永仁2年春より長年の忍難弘通(ぐつう)の末、元享元年(1321)京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路に創建したのが当寺のおこりである。 建武元年(1334)には法華宗号と勅願寺の綸旨を受け、法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位を認められ、四海唱導妙顕寺といわれた。 しかし、度々の法難と災禍により寺地も転々とし、秀吉の都市計画で五条大宮の旧地より現寺地に移された。のち、天明8年(1788)焼失したが、天保5年(1834)再建され今日に至っている。 寺宝として、紙本墨書後小松天皇宸翰御消息(重要文化財)などがあり、寺域内には尾形光琳の墓がある。
三時知恩寺 (旧入江御所)
大光明寺
上善寺
千松山遍照院(せんしょうざんへんしょういん)と号する浄土宗の寺院である。 寺伝によれば、貞観5年(863)に、僧円仁により、天台密教の道場として、千本今出川(上京区)に創建されたと伝えられている。その後、文明年間(1469~87)に、春谷盛信(しゅんこくせいしん)によって再興され、後柏原天皇の勅願寺として栄え、文禄3年(1594)、寺域を現在の地に移し、浄土宗に改められた。 地蔵堂に安置する地蔵菩薩は、平安時代の初め、小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、生身の地蔵尊を拝して蘇った後、一木から刻んだ六体の地蔵の一つと伝えられ、俗に、「深泥池地蔵」、又は、「鞍馬口地蔵」とも呼ばれている。 この地蔵は、当初、小幡の里に祀られていたが、保元年間(1156~59)に、洛北の御菩薩池(深泥池)の畔に祀られ、さらに当寺に移されたものといわれている。 毎年8月の22・23日の両日の京都六地蔵巡りには、多くの参拝者で賑う。 由緒 浄土宗。千松山遍照院と号す。貞観5年(863)円仁が天台密教の道場として創建したと伝え、文明年間(1469~1487)春谷盛信が天台真盛宗として再興、現在の寺号を定める。文禄3年(1594)千本今出川から現在地に移り、天台真盛宗から浄土宗へと改宗もする。 本尊としてお祀りしている阿弥陀仏坐像は寛永11年(1634)嵯峨今林蓮華清浄寺から移してきたものであり、行基作と伝えられる。地蔵堂には洛北の深泥池ほとりより移した深泥池地蔵が安置されており、京都六地蔵めぐり(8/22~8/23)の一つに数えられる。 境内には合わせて今出川家歴代の墓や禁門の変で戦死した長州藩士の首塚もある。 また、「二河白道の庭」をはじめ「釈迦八相の庭」「三笑の庭」「仏教伝来の庭(二祖対面の庭)」がある。
興臨院
当院は大徳寺の塔頭で、大永年間(1521~1528)能登の畠山義総が仏智大通禅師を開祖として建立したといわれ、みずからの法名を寺号とした。 当院の方丈・唐文・表門そして所蔵の椿尾長鳥模様堆朱盆は重要文化財である。 方丈は創建後に火災にあったが、天文2年(1533)に再建されたらしく、さらに畠山氏衰微ののち、天正年間(1573~1592)前田利家によって修復なども行なわれた。 方丈玄関の唐門は室町時代の禅宗様式を見事にあらわしており、表門も創建当初のもので「興臨院の古文」として有名である。 一方、バイタラ樹の名木がある枯山水の庭や茶席「涵虚亭(かんきょてい)」のおもむきが深い。 なお、墓地には畠山家歴代の墓や久我大納言夫妻の墓など、当院ゆかりの人々の墓も多くある。
千本ゑんま堂(引接寺)
光明山歓喜院引接寺とごうする寺院で、本尊として閻魔法王を祀り、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれている。 開基は小野篁卿(八〇二~八五三)で、あの世とこの世を往来する神通力を有し、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に使えたと伝えられ、朱雀大路頭に閻魔法王を安置したことに始まる。 その後、寛仁元年(一四八八)に造立されたもので、高さは二、四メートルある。篁卿は「お精霊迎え」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、この世を現世浄化の根本道場とした。 以降、宗旨・宗派を問わない民間信仰が続いている。 五月に行われる千本ゑんま堂大念仏狂言は、京都三大念仏狂言のうち唯一の有限劇で、京都市無形民俗文化財に指定されている。 名桜「普賢像桜」は咲いた時に双葉を持ち、花冠のまま落ちる珍しい桜である。 往時、この地に桜が千本あったことと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来して、「千本」という地名が生まれたと言われている。 また圓阿上人が至徳三年(一三八六)に建立した紫式部供養塔は、貴重な十層の多重石塔で、国の重要文化財に指定されている。 ◆由緒 開基 小野篁卿(おののたかむらきょう) 平安初期の漢詩人として有名な人である。延暦21年、参議小野岑守の長子として生まれ、長じて嵯峨・淳和・仁明・文徳の各帝に仕え、この問、東宮学士、遣唐副使、左大弁等の職を歴任した宮中の御役人であり、歴々たる為政者である。 こんな人がどうして千本えんま堂の開基(基礎を築き上げた人)であるのか。この人の事跡をこれ以上述べようとすると当時の世相から述べねばならない。 一、宮廷の設立 延暦13年、桓武天皇がこの京都に平安京を遷都されると、これまでの山城国はどんどんと改造された。まず幹線道路として、朱雀大路という大道路を南から北に向けて縦に長くどっかりと造成して、京の都を東西に大きく分断した。東半分を洛陽と名ずけ、西半分を長安と名ずけた。そして朱雀大路の南の入口に羅城門という壮大な関門を設け、北の入口に朱雀門という、これまた壮大な関門を(現在の千本今出川辺りに)設け、平安京はこれら二つの門に挟まれた、さながら城郭内の観があったという。 その中程辺りに(現在の千本丸太町辺り)儀式を行う朝堂院の中に大極殿(現在の寺院に例えば本堂)が建てられ、それに付随して内裏(だいり)と大内裏(おだいり)があり、これが天皇のお住まいであった。これを取り巻くように文武百官の諸官庁が置かれた。したがって、現在でこそ京都御所と称しているが、その時代は「おだいり様」と称していたと言う。 このほかに應天門、殷富殿、武徳殿等ありて華やかな宮廷生活がここで繰り展げられ、また国の政治もここで執務され捌かれるのであった。 二、当時の世相 かくの如く平安京として都を定められると京の都は爆発的に人口が増えた。人口が増えるということは死ぬ者も増えるという事である。加えるに天災地変により疫病が流行したり飢饉が襲ったりする。 数年後、今やれっきとした為政者に成長した篁卿は、こうした大問題に真正面から取り組んでいかねばならぬ立場であった。この時の篁卿は、現在の政局に当てはめれば、差し当たり福祉厚生局長官ぐらいにあたるであろう。そして彼の政治の理念が地蔵菩薩の信仰を中心とした事はさすがである。 およそ政治の要道は国の利益を図るとともに民百姓の人心を安らげ幸福な日暮しをさせる道を開く事である。それには地蔵菩薩の信仰に浸らせる事が、当時としては最上の方策であると篁卿は判断したのであった。 なにしろおびただしい死者が京洛の街に氾濫する。まずその処置として、周辺五ケ所に葬場を兼ねた墓地を設定した。即ち蓮台野、鳥辺野、化野(あだしの)、西院河原(さいがわら)、華頂山(かちょうざん)の五ケ所であった。このうち現在の舟岡山を中心とした蓮台野が最も大きかったという。 その時代の葬式は、平成の現代の、ごとき派手な葬式では決してない。特に貧富の差の激しいその当時にあっては庶民には風葬をとり行うのが常例であった。そうした世相の中に着任した篁卿は先づ埋葬を奨励した。更には進んで官庁の命令として強力にこれを推進した。何が故に彼がこうした政策を實行したのか、それは次ぎの地蔵菩薩の妙用の項で判る。ここで丁寧に地蔵菩薩を勧請してお弔いをする必要が生じてくる。またそうしなかったならば、いかに庶民といえども納得・得心しなかったであろう。この点を篁卿は重要視したのである。 彼はその回向、読経を、出家僧侶のみに任せず自分自らもそれを執り行った。因って時の人及び後世の人々も篁卿を称して地蔵菩薩の生まれ替わりだと言った程である。 人間死んだならば地蔵菩薩に引き取られ、極楽へ道案内してもらえる。この信念とこの行動を以て政治を行ったので、天平の治世は円く治まった。 三、地蔵菩薩の妙用(御働き) 此所で地蔵菩薩とはどうした佛様であろうか。その御働きと功徳を一寸述べる事にしよう。 地蔵菩薩はその名の如き我等の住めるこの大地を統括している佛様であります。云い換えたならば「大地即ち地蔵、地蔵即ち大地」なのです。考えて見たら私共がこの大地から受ける恩徳は誠に限りがありません。差当り衣食住の凡ては大地から受けております。動力源の石油も大地の賜物です。然るに此の恩恵に対して私共は大地にどんな報恩をしているでしょうか?その実態は報恩どころか、あくなき迷惑のかけ続けと云うのが真実でしょう。日々ヒリ出す排尿の処理も大地以外にありません。どんな汚い物でも大地はいとわず受容れて呉れます。しかもそれを清めて私共の生活に役立てて呉れます。谷間の清水、それから野菜を育てる肥料としての堆肥等がよい例です。これが現世に於ける地蔵菩薩のお働きであります。来世にはどうであるか。教典に云う「一度名号を聞く人に替りて苦を受く御誓い、衆生の業に泪して、迷の闇より救います、救わせ給うぞ有難や」とあります。かくして此の時季より徐々に風葬は姿を消し埋葬に替って行った。 四、千本通りの地名発生の根源 以上のごとく篁卿に依って蓮台野の墓地が設定されると、この場所も年を増す毎に騒々しくなってきた。即ち愛別離苦の苦しみは昔も今も変わらない。父や母、実子や兄姉は無論のこと、有縁の者一切、野辺の送りを済ませた者を、どうしてそのままに捨て置く事ができようか。塔婆を建ててこれを回向する心情においては昔も今も変わりはない。埋葬であれ、風葬であれ、その場所へ五輪の宝塔婆を建てて供養し、回向する者が年を重ねる毎に増大していくのだ。 こうした人々が朱雀大路をひしめき合った。建てられた塔婆は大小入り交じって千本以上も建てられていたので、ここへ行き交う人々によって、いつしかこの大通りも千本通りという名になってしまったという。 五、冥土の巡歴 さてこのように多才の篁卿に更にもう一つの大きな才能があった。それは何かと言うと、冥土(人間が死んでからの世界)を巡歴する事のできる神通力を持っており、彼はこの神通力を持ってしばしば現世界と冥土を往復したのであった。冥土の主宰者はえんま法王である。この神通力は篁卿の人柄により法王より授けられたものであった。 その篁卿の日に映った冥土、特に地獄の現相は誠に恐ろしきものであった。等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、無間の八地獄に悶えている亡者を見て、なんとかして救い上げてやりたいと思った。ところがこの亡者の中に、特に閻魔様に呼び出されてお許しを受け、他の亡者の羨望裡に喜びに打ち震えるようにして娑婆に帰り行く者の姿が篁卿の目に留まった。不思議に思った篁卿は早速その由を閻魔様に伺ったのであった。 「これはいかなる理由によるのでしょうか。」 「これは亡者の遣族が娑婆において死者の回向の為、塔婆を捧げてくれたのじゃ。およそ塔婆の功徳は一枚が仏像一体に匹敵する。塔婆を建て清き真心より追善供養を営めば、たとえ地獄に落ちている亡者でもその苦悩を免れて極楽に往生し、そしてあのように娑婆にも帰る事ができる。」 これを承った篁卿は「このような有り難い功徳は、すべての亡者に及ぼして、極楽の喜びを受けさせたいものだ。」と考え、閻魔法王より「塔婆供善」の秘法を授かり娑婆に帰ってくると早速船岡山を訪ねて、麓に祠を建て篁卿自ら閻魔法王の像を刻んで安置しここで塔婆供養の厳法を修されたのである。即ち現在の閻魔堂これである。 六、結ぴ 京都が千年の王城として、とりわけ佛都として栄えた事は何と言っても弘法大師、伝教大師の遣徳の然らしむる所と言ってよい。 しかし、小野篁卿の善政も無視出来ない。此の偉人達に肩を並ぶる人と言っても過言ではあるまい。 仁寿二年篁卿は五十一才で崩じた。筆者は此の思いを深くする。記事の都合でこの略縁起もここで擱筆するが勿論これで終りではない。千本えんま堂が基礎づけられると、世は藤原道長の時代に至り、比叡山、横川の僧定覚上人に依って、引接寺が開山されそして普賢象櫻が植えられ、ゑんま堂狂言が開創される等々記す事は数多いがそれ等は次ぎに発刊される「引接寺由来記」に譲る事とする。 ◆塔婆供養の御薦め (特に四十九目内の新佛様への訴え) 此所に塔婆供養と申しますのは、祥しくは「五輪宝塔婆に依る供養」の儀であります。この塔婆が我が日本に渡来したのは弘法大師に上って眞言密教が中国から伝承された時からと推察されますが、現今にては宗派を問わずどこのお寺でも、追善回向には必ずと言ってよい程使用されております。 それもその筈、功徳力甚大だからです。何分眞言密教のみ教えがこれ一本に凝集されており、加えてその表現は佛様が座禅しておられる姿なのです。当千本えんま堂の塔婆供養は開基小野篁卿がえんま法王より直伝の秘法である所に特長があります。 今より千年程のその昔、塔婆供養の法を伝授された小野篁卿が此所、舟岡山の山麓、蓮台野を訪ねて祠を建て自作のえんま法王像を安置されて塔婆供養を行われたのが最初であります。勿論その時の法王像は損消し現在の御尊像は室町時代に改作されてからでも五百年。ずっと現在の場所に鎭坐ましましているのだから律とす可きであります。 経典に「塔婆は浄土往生への舟筏なり」とあります。くだいて言ったら極楽へ行く舟か筏であるとの意味であります。 人のこの世は永くして、変らぬ春と思いしに無常の嵐吹きぬれば、春の朝に花を玩遊びし人も夕辺には北郎の煙と消えて行く。 これがこの浮世の誠の相であります。皮肉な事にはそんな人は一家にかけがえのない大切な人がほとんどであります。 一息永く絶えて定命既に尽きぬれば一生涯の内に二度となく、しかも初めて経験する冥土の旅。それは往方も知らぬ黄泉の闇路なれどトポトボと訪迷い歩かねばならない。 数年前に京都から選出された代議士で内閣では法務大臣迄登閣した人があったが此の人が健在なりし時「俺は死んだら坊主のお経なぞ不用だ、葬式なぞしていらん!」と豪語しておられたのを知っているがこの人の葬式の事は知らないが七十才台で逝去された事は確! こんな人でも死なれたならば孤独で野垂れ死にをした者と平等です。 娑婆にありし時にどの様な高位顕官であろうと又如何程の大富豪であろうと今この時は何の支えにも、助けにもならない。 その時にサッと五色の光明がさしこむと共に六道能化の地蔵菩薩がお出ましになり、右手には御供えした宝塔婆を棒持しつつ極楽へ招き御導き下さいます。 これが塔婆供養の御利益であります。
相国寺 慈照院
臨済宗相国寺派に属し、もとは大徳院と称した。延徳2年(1490)足利義政の塔所影堂となり、その法号より慈照院とした。 当院第七世の仏性本源国師(きん叔顕たく(きんしゅくけんたく))は桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と親交を深め、寛永6年(1629)には桂宮が当院境内に御学問所を建てられ、同9年に国師に下賜された。 この建物が現在の書院棲碧軒(せいへきけん)である。こうしたところから数ある塔頭の中でも格式の高い寺である。 国師は千宗旦(せんのそうたん)(利休の孫)とも交流があり茶室頤神室(いしんしつ)は宗旦との合作で「宗旦好みの席」とも呼ばれ、四畳半の下座床で躙(にじり)口はなく、南側に障子二枚引の貴人口を設け、床には宗旦に化けた狐の伝説で知られる「宗旦狐」の掛軸がある。 また、席内に持仏堂があり布袋像を安置する。 この像の首は機に応じて利休の首とすげ替えられるようになっており、当時は世間体をはばかり公然と利休を祀れなかったため、こうした工夫がなされたと伝える。