正伝寺

鎌倉時代、東巌慧安禅師が一条今出川に仏殿を構え、1282年(弘安5)今の地に移った。 本堂(重文)は承応2年(1652)に伏見城御成御殿を移建。内部の襖絵は狩野山楽筆。 廊下に血天井がある。 小堀遠州の作と伝える庭園は、江戸初期の枯山水。臨済宗。 ◆由緒 洛北西賀茂の正伝寺は鎌倉時代我国に来朝された宋の兀菴普寧禅師の法をつがれた東巌慧安禅師が創立せられたのであリます。 弘安5年に加茂の祠官森経久が西加茂の地に荘園を寄附して諸堂伽藍を造営して壮観を極めたと伝えられています。 爾来皇室の御信仰厚く五穀豊穣国家安泰を祈願する道場とされ、今日まで法燈700年余の歴史が続けられております。 ◆方丈(重要文化財) 伏見桃山城にあった遺構で御成殿と称せられていました、承応2年当山に移建して本堂としたものであります。 ◆襖絵 狩野山楽筆(重要文化財) 方丈の襖絵は淡彩山水図で中国杭州西湖の真景であります。この障壁画は山楽の数少ない作品の内の傑作として美術史上特筆するもので、彼の格調高き風趣を偲ふに足るものがあります。 ◆血天井 桃山城遺構 方丈の広縁の天井は関ヶ原の戦の直前伏見城に立籠った徳川方の重鎮鳥居彦エ門元忠以下千二百余名がその落城の際割腹し果てた廊下の板を天井としたものであります。今尚板上に残るおびただしい血痕は当時の悲惨な武士道を物語っています。 景近血液学の権威として知られている古畑種基博士の研究によって、368年以前の人間の血液であると云い伝えているこの斑点より反応のある科学的証明をされました。今日菩提追善の念を新たにするものであります。 ◆獅子の児渡し庭園 小堀遠州 白砂敷平庭でつゝじの刈込によって七五三調を表現した枯山水ではるかに比叡の霊峰を取り入れた借景式の庭園で、その枯淡な風格は禅苑の心のしずけさを味わしめるものがあります。

石像寺(釘抜地蔵)

正しくは家隆山光明遍照院(かりゅうざんこうみょうへんしょういん)石像寺と写し、俗に「釘抜地蔵」ともいう。 弘法大使の開基と伝え、もと真言宗であったが、重源(ちょうげん)上人が中興してから浄土宗となった。 むかし、歌人の藤原定家(ていか)、家隆(いえたか)が住んだところという。 地蔵堂に安置する石造地蔵菩薩(ぼさつ)立像は弘法大使の作と伝え、もろもろの苦しみを抜き取るという親交から苦抜(くぬき)地蔵といい、それがなまって釘抜地蔵といわれる。本堂には行基(ぎょうき)の作と伝える観世音菩薩もあわせてまつっている。 地蔵堂背後の阿弥陀三尊像(立像一、座像二、重要文化財)は、鎌倉初期の傑作で、中尊の阿弥陀如来像は高さ約一、二メートル、元仁元年(1224)伊勢権守(いせごんのかみ)、佐伯朝臣為家(さえきあそんためいえ)によって彫られ、翌年、開眼(かいげん)供養した銘がある。 境内墓地には藤原定家、家隆の墓と伝えるものや、弘法大使三井(さんせい)の一つという加持水(かじすい)がある。

宝鏡寺 (人形寺)

中世京洛に栄えた尼五山の一つであった景愛寺の法灯を受け継ぐ宝鏡寺は、光厳天皇皇女華林宮惠厳禅尼公が伊勢二見浦で、漁網にかかった聖観世音菩薩を奉じて創建・開山による臨済宗単立の尼門跡寺院。 百々御所(どどのごしょ)の御所号をもつ。 孝明天皇遺愛の人形をはじめ、多くの人形を所蔵、‘人形の寺’として有名。 ふだんは非公開だが、春と秋に人形展が開かれる。 3月1日~4月3日、11月1日~30日の春秋2回、宝鏡寺。長い尼門跡寺院の歴史のなかで、皇室から下賜された人形、歴代の門跡ゆかりの寺宝が多数所蔵されており、これらを中心に寺宝の人形が展示される。 人形愛好家必見の催し。期間中、本堂、阿弥陀堂など特別公開。

阿弥陀寺

蓮臺山・※そう見院・阿弥陀寺、織田信長の法名「※そう見院」を冠する浄土宗寺院・百万遍知恩寺末。信長の帰依を受けた清玉上人開山、当時蓮臺野芝薬師に塔頭十三ケ院、八町四方の伽藍を構えていた織田家の菩提寺。 信長公本廟たる由縁は、天正十年六月二日未明、信長公宿所たる本能寺の異変を清玉上人は察知し、駆けつけるが間に合わず、近習の武士達に遺骸を託され持ち帰る。 その後明智光秀の陣を訪ね、戦闘の停止と、嫡子信忠・森蘭丸等、当日本能寺、二条城にて自刃・討死した織田家中百余名の遺骸の収容・供養を申し出、光秀はこれを受諾、清玉は阿弥陀寺にて供養、墓を建てた。 今も信長はじめ百余名の討死衆の合祀位牌が現存、供養されている。その後秀吉の寺町造成に伴い寺域を縮小、移転され現在の場所に移る。信長公本廟とは、大正六年位階追陞(信長公に正一位を追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があった。 六月二日のみ「信長忌」勤修の為堂内拝観可。併せて各種寺宝公開。 ※名称中「※そう」は手偏に総のつくり

瑞峯院

大徳寺塔頭。キリシタン大名として知られる大友宗麟公が、1535年(天文4)菩提寺として創建。本堂、表門(ともに重文)は創建当時のもの。 庭園は独坐庭と称し、苔と石組みで構成し、枯山水の名園として知られる。 本堂裏には、石組を十字架形にした閑眠庭がある

大仙院

本院は、大徳寺北派の本庵である。 永正6年(1509)に六角近江守政頼がその子古岳宗亘(こかくそうこう)を開祖として創立した。 本堂は、入母屋造(いりもやづくり)・銅板葺で、我国最古の方丈建築遺構といわれ国宝である。 書院も入母屋造・銅板葺で重要文化財である。 庭園は、室町時代の枯山水(かれさんすい)を代表する石庭といわれ、狭い庭に無数の岩石を配して、山と滝と渓流とを表わしており、史跡・特別名勝に指定されている。 ◆由緒 大徳寺北派本庵大仙院は、永正6年(1509)正法大聖国師古岳宗亘禅師が開かれた数ある大徳寺塔頭中でも特に由緒ある名刹であり、室町時代の代表的な枯山水庭園及び方丈建築を有している。襖絵もまた相阿彌(弥)、元信、之信と貴重なものばかりである。大仙院歴代中、三世古渓和尚は、千利休の首を加茂の河原から持ち帰ったことで、七世沢庵和尚は宮本武蔵との関係で有名である。 また、利休を中心とする茶人の系譜は大仙院歴代と密接な関係があり、とりわけ利休と大仙院との関係は種々の逸話によって語り継がれている。 庭園(特別名勝および史蹟) 作者 大聖国師(大仙院開祖 古岳宗亘禅師) 作庭年代:永正6年(1509)約490年前(応仁の乱後の作庭である。) 形態:鶴島と亀島の間に蓬莱山があり、そこから滝の流れ落ちる。石橋の下をくぐり透渡殿の下をくぐった水に一旦堰に落ちて大河となり、石の宝船が浮かび小亀の泳ぐ景色を見せて遂に方丈南側の大海に至る。同じ蓬莱山の滝の水が亀島の前を通って西行すれば方丈北の中海に至る。 ◆枯山水の成立 禅宗の影響 :鎌倉初期に日本に渡来した禅宗の思想が作庭に具体的影響を持ってきたのは室町時代初期頃からである。作庭が禅思想の影響を受けると、庭園の形態が極めて抽象的となる。例えば白砂を敷いて水流を表現する。石を立てて滝の音を現す。大仙院庭園は中期のもので極めて傑作である。 水墨山水画の影響 :同じく禅思想の影響を絵画が受けるとと破墨山水の如き象徴的表現となる。しかし逆に室町時代の絵画の主流であるこの山水画の手法が庭園に影響を与えたとも言える。 政治的経済的影響 :室町時代の文化の担い手であった足利幕府を中心とする貴族・大名等の指導階級が室町中期近くなると、いわゆる下克上と言われるように、政治的に従来の権威を失墜してくると同時に経済的にも逼迫してくる。これに対応して従来のように規模壮大にして自然のままをとり入れた庭園(例-大覚寺の嵯峨離宮の庭園・西芳寺の苔庭・金閣寺の庭園等)を造営することが困難となる。 ◆建築・襖絵 国宝大仙院の方丈は室町時代のものでわが国最古の方丈建築として貴重なものである。 北の書院拾雲軒も沢庵が宮本武蔵に剣道の極意を授けた処として喧伝されているが室町時代の代表的書院建築である。 襖絵には相阿弥(~1525)の瀟湘八景・狩野元信(1476~1559)の花鳥図・同之信(1513~1575)の四季耕作図と何れも室町期障壁画中の名作として世界美術史上欠く事の出来ない存在である。現在、重要文化財に指定されて居る。

廬山寺(廬山天台講寺)

938年(天慶1)延暦寺中興の祖、元三大師良源が開基。皇室とのゆかりが深く、天明の大火(1788・天明8)で失った堂宇は、皇室の援助で復興。紫式部の邸跡で、源氏の庭、お土居などが残る。 宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなむ節分行事‘鬼法楽’は有名。

安楽寺

住蓮(じゅうれん)山と号し、浄土宗の寺院である。 鎌倉時代の初め、現在地より東1キロメートルばかりのところに、法然上人の弟子住蓮房・安楽房二僧が念仏道場を建てて人々に念仏をすすめた。たまたま、後鳥羽上皇の官女松虫・鈴虫両姫が教化をうけてひそかに出家する事件がおこり上皇の立腹をうけ、「念仏停止」の宣下によって二僧は死刑、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へと配流された。 これがいわゆる建永2年(1207)の法難であるが、下って室町時代の末、天文年間(1532~1555)二僧の供養のため伽藍をこの地に再興したのが当寺である。 本堂には本尊阿弥陀三尊像を安置し、傍に住蓮・安楽両上人、松虫・鈴虫両姫の座像、法然上人張子の像等をまつっている。 また、境内右手に住蓮・安楽両房の五輪石塔、東方山林中に松虫・鈴虫両姫の五輪石塔がある。 この寺は、鎌倉時代のはじめ浄土宗元祖法然上人の弟子の住蓮上人と安楽上人が、現在地より東1キロメートルのあたりに「鹿ヶ谷草庵」を結んだことに始まる。 住蓮上人と安楽上人は、唐の善導大師の『往生礼讃』に譜曲を附し、六時礼讃声明を完成された。両上人が勤める声明は、まことに美しく、参詣者の中には出家して仏門に入る者もあった。その中に、後鳥羽上皇に女官として仕えていた松虫姫と鈴虫姫姉妹がおられえ。両姫は容姿端麗で教養も重富であった。上皇からことさら寵愛を受けていたために、他の女官たちからの嫉妬も相当なものであったという。両姫は、虚飾に満ちた御所での生活に苦悩し、心の平安を求め、いつしか出家を望むようになった。 建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇が紀州熊野に参詣の留守中に、両姫は清水寺で法然上人の説法を聴聞し、念仏(南無阿弥陀仏)によって救われるほかに道はないと自覚された。御所に反られてからもその説法が忘れられず、夜中密かに御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵Jを訪れ、雨上人の前で剃髪出家し、尼僧となった。時に松虫姫は19才、鈴虫姫は17才であった。 この事を知った上皇は激怒し、この出求事をひとつの口実として専修念仏教団に対し弾圧を企てた。翌建永二年(1207)二月九日、松虫姫を出家させた住蓮上人は、近江国馬淵(現在の滋賀県近江八幡市)において斬首に処された。また鈴虫姫を出家させた安楽上人は京都六条河原(現在の泉本願寺近く)において斬首に処せられた。この迫害はこれに止まらず、法然上人は七十五歳の高齢にも拘らず讃岐国(現在の香川県高松市)に流罪、親鸞上人は越後国(現在の新潟県上越市)に流罪に処された。 その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生ロ島の光明坊に移り、念仏三味の余生を送り、松虫姫は35才、鈴虫姫は45才で往生を遂げたと伝えている。 また両上人の亡き後「鹿ヶ谷草庵」は荒廃したが、流罪弛から帰京した法然上人が雨上人の菩提を弔うために草庵を復興し、「住蓮山安楽寺」と名付け両上人の追善の寺とした。その後、天文年間(1532~1555)の末、現在地に本堂が再建され今日に至る。 [松虫姫鈴虫姫和讃] 松虫姫と鈴虫姫が、住蓮上人と安楽上人のもとで剃髪染衣を求め、出家する経緯が七五調の句を重ねた美い、調べをもって語られている。安楽寺では、4月と11月の両姫の祥月忌に和讃法要を勤めるほか、毎月一度、和讃月例会を聞いている。 [中風まじない鹿ヶ谷カボチャ供妻:] 毎年7月25日に、京都お伝統野菜の一つである瓢箪型をした鹿ヶ谷カボチャを煮炊きしたものを参拝者に振舞い、中風にならないようにと願う行事がある。併せて、当山の宝物(掛軸)の虫干しも行う。 【くさの地蔵 地蔵縁日復興】 安楽寺の地蔵菩薩立像(くさの地蔵)は、古くから皮膚病や腫蕩平癒にご利益あリと信仰される。平成3年(1991)の解体修理で胎内に墨書銘が認められ、鎌倉時代中期の正嘉2年(1258)5月2日の作の木造であり、作者も慶派の仏師であることが判明した。2015年5月2日、地蔵堂が再建されたことに合わせて、「地蔵縁日」も150年ぶリに再開された。

高桐院

大徳寺塔頭。1601年(慶長6)利休七哲の一人細川忠興(三斎)の創建。 利休邸移築の書院につづく茶室松向軒は秀吉の北野大茶会に用いられたものを移したと伝える。 江戸初期につくられた庭に三斎とガラシャ夫人の墓がある。 寺宝の李唐筆「絹本墨画山水図」2幅は南宋初期山水画の名作で国宝。 ◆由緒 高桐院は細川幽斎公の長子忠興三斎公により慶長6年(1601)に建立された大徳寺塔頭の一で、開祖玉甫紹踪和尚は幽斎公の弟であった。 細川三斎公は正保2年12月2日、83才の高齢で卒去、遺言によって遺骨は高桐院に埋葬された。法名の松向寺殿三斎宗立は茶席松向軒の名として接されている。 三斎公は織田・豊臣・徳川の三時代に、一貫した精神で身を処した戦国時代切っての智将であるが、公はまた利休七哲の一人として茶道との深いえにしによって有名である。 茶道の奥義を究め、歌道をたしなみ、文武両道に秀でた哲理の人であった。 正室細川ガラシャ夫人が織田の反逆者明智光秀の息女という不利の時代も光秀にくみしなかったのは、三斎公が武人として時代を超えた明晰な洞察を持っていたゆえである。 ◆庭園 高桐院参道は表門から鍵の手に磨門を望む自体石の敷石道である。春夏の青葉・枕の紅葉を天蓋に頂く一直線の参道は幽玄の気に満ちている。客殴南庭は江戸時代初期の造園。 楓樹を主とした野趣に富む庭であるが、青葉の清列・紅葉の華麗・冬の静寂と四季折々、自然の風雅をたくまずに含めた横囲は見事というほかない。茶室鳳来の西部露路の降りつくばいには、朝鮮の王城の礎石をもちかえったという蒙壮な袈裟型の手水鉢が置かれている。 高桐院の庭園美は、四季共にさまざまな変化の美しさを特色として杖引く人の眼を歓ばせている。 ◆建造物 高桐院の建造物には客殿・書院・庫裡などがある。書院は千利休居士の邸宅を移築したもので、この書院に続いて二帖台目の名茶席松向軒がある。松向軒は寛永5年(1628)三斎公の手で建立されたもの。 清巌和尚によるその由来には、常に松声を聞き且つ趙州無舌の茶味を嗜む因って松向と名づく云々とあって、茶室に珍しい黒壁は瞑想の場の感があって、簡素な中にも幽玄の雅味をたたえた名席である。 更に高桐院客殿西北部には、八帖円能斎好みの大らかで優美な茶室鳳来がある。洗練された豊かな風雅を感じるこの茶席もまた、高桐院の伝統の一面を伝えて爽やかである。 ◆墓所 三斎公及びガラシャ夫人の墓石は、生前愛好した石灯篭をもってそれに当てた。細川家の墓所の中にこの鎌倉時代の美しい灯篭墓石は、苔を褥に静かに据わっている。 これはもと利休秘蔵の天下一の称ある灯篭であったが、豊太閤と三斎公の両雄から請われて、利休はわざと裏面三分の一を欠き、疵物と称して秀吉の請を退けた。のちに利休割腹の際、あらためて三斎公に遺贈したもので無双という銘を持ちまた別名を欠灯篭ともいう。 更に蕨手・灯口・横が欠けているのは、後日完全を忌む公自身が欠いた、という記録があり、三斎公の面影が偲ばれる逸話である。三斎公の墓石とともに当院には、清巌・大心両和尚などの墓がある。 清巌和尚は、大徳寺170世の名僧で、三斎公には少なからず影響を与えた人物である。 高桐院にはまた、歌舞伎の始祖として名高い出雲の阿国、共に名を残した名古屋山三郎や、また森鴎外の著作で有名な興津弥五右衝門などの墓もある。 静かに永眠する英雄豪傑才女の歴史をしのんで、墓所には香華の紫煙が流れている。 ◆宝物 高桐院寺賓国宝李唐筆山水図双幅は、右幅に李唐画と署名のある唯一の傑作で楊柳観音図を添える。 また重文牡丹図は銭舜挙筆の名画でこの図は我が国に伝わる牡丹図中の王座を占める大作で豊公北野大茶会に使用されたものである。 ◆高桐院開祖忌 6月8日(拝観中止)・宝物曝涼展 10月第2日曜日

千本釈迦堂(大報恩寺)

瑞応(ずいおう)山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。 承久3年(1221)義空(ぎくう)上人が、藤原光隆(みつたか)の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。 当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。 現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。 堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の木造十大弟子立像をはじめ、銅像誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを安置している。 また、毎年、2月にはお亀福節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。 ◆由緒 瑞応(ずいおう)山と号する真言宗智山派の寺院で、千本釈迦堂の名で知られている。 承久3年(1221)義空(ぎくう)上人が、藤原光隆(みつたか)の臣、岸高より寄進を受けたこの地に、小堂を建て一仏十弟子像を安置したのが当寺の起りといわれている。当初、倶舎、天台、真言の三宗の霊場として、堂塔迦藍も整い、壮麗を極めたが、応仁の乱をはじめ、度々の災火のため堂宇を消失してしまった。 現在唯一残る本堂(釈迦堂)は、本市に現存する最古の仏堂遺構で、国宝に指定されている。堂内には、行快作の本尊釈迦如来坐像及び、快慶作の木造十大弟子立像をはじめ、銅像誕生釈迦仏立像、六観音菩薩像、千手観音立像などを安置している。 また、毎年、2月にはお亀福節分会、5月には花供養、7月には陶器供養、8月には精霊迎え、12月には大根焚きなど多彩な行事が営まれ、多くの人々で賑わう。 ◆おかめ塚由来 鎌倉時代の初め西洞院一條上るの辺りで長井飛騨守髙次という洛中洛外に名の聞こえた棟梁とその妻阿亀が住んでいました。そのころ、義空上人(藤原秀衡の孫)が千本釈迦堂の本堂を建立することになり、髙次が総棟梁に選ばれ造営工事は着々と進んでいきましたが、髙次ほどの名人も”千慮の一失”というべきか信徒寄進の四天柱の一本をあやまって短く切り落としてしまったのです。心憂の毎日を過ごしている夫の姿を見た妻の阿亀は古い記録を思い出し、「いっそ斗供(説明文は「木+共」の字)をほどこせば」というひと言。この着想が結果として成功をおさめ見事な大堂の骨組みが出来上がったのです。 安貞元年12月26日、厳粛な上棟式が行われたが、此の日を待たづしておかめは自ら自刃して果てたのです。女の提言により棟梁としての大任を果たし得たという事が世間にもれきこえては・・・「この身はいっそ夫の名声に捧げましょう」と決意したのです。 髙次は上棟の日、亡き妻の面を御幣につけて飾り、冥福と大堂の無事完成を祈ったといわれ、また、この阿亀の話を伝え聞いた人々は貞淑で才智にたけた阿亀の最期に同情の涙を流して菩提を弔うため境内に宝筐院塔を建立し、だれ言うとなくこれを「おかめ塚」と呼ぶようになったのです。 現在、京都を中心として使用されているおかめの面の上棟御幣は阿亀の徳により、”家宅の火災除け”家内安全と繁栄を祈って始められたものです。また、おかめの徳は、”災いを転じて福となす”というところから、建築成就工事安全、女一代厄難消滅、商人の商売繁栄などの招福信仰として全国を風靡するところとなっています。 なお、昭和54年の春、有志により阿亀の大像が造立され福徳の像として祀られ”おかめ信仰”の輪が一層広がっております。