談山神社

舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。 たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることができ、西暦645年の5月、二人は多武峰(とうのみね)の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。ここに鎌足公は真の日本国を発想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞い、大織冠(たいしょくかん)を授けて内大臣に任じ、藤原の姓を賜りました。 藤原の姓はここに始まります。鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立した。 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。 ◆由緒 大化改新発祥之地 大和国多武峯鎮座 御祭神 藤原鎌足公 藤原鎌足公は、推古天皇二十二年(613)、中臣御食子卿の長子として大和国高市郡大原に生誕され、幼名を鎌子と称した。中臣氏の祖は天児屋根命にて、代々神事を司どる家柄であり、公はその二十二代孫に当られる。 公は至誠一貫朝廷に仕え、皇極天皇の御代には中大兄皇子(後の天智天皇)と共に当神社本殿裏山の談山に於て国家革新の大業を計り、ついに大化元年(645)「大化改新」を成しとげられ、更に近江大津遷都などの国家事業に尽くし、わが国の隆昌と安泰の為に偉大な功績をのこされた。天智天皇八年(669)内大臣に任ぜられ藤原の姓を賜り人臣最高の位大織冠を授けられ、同年十月十六日薨ぜられた。白鳳七年(679)、公の長子定恵は、この多武峯の山頂に父の墓を造り、十三重塔を建て父の御霊を弔った。のちに大宝元年(701)、方三丈の神殿を建立し、御神像を奉安したのが当神社の創祀である。当神社は古来国家鎮護の神、子孫繁栄の神また全国藤氏一族総氏神として朝野野尊崇をうけ現代に至っている。

三輪明神 大神神社

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)(大国主神(おおくにぬしのかみ)に同じ)が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおものぬしのかみ)(詳しくは(やまとのおおものぬしくしみかたまのみこと))の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。 5068

狭井神社

当神社は、第十一代垂仁天皇の御世(約二千年前)に創祠せられ、ご本社大神神社で大物主神「和魂」をお祀りしているのに対して「荒魂」をお祀りしています。 「荒魂」とは進取的で活動的なおはたらきの神霊で、災時などに顕著なおはたらきをされます。特に身心に関係する篤い祈りに霊験あらたかな御神威をくだされ、多くの人々から病気平癒の神様として崇められています。 今「くすり祭り」と知られる鎮花祭は、西暦834年施行の「令義解」に「春花飛散する時に在りて、疫神分散して瘟を行ふ。その鎮遏の為必ず此の祭りあり。故に鎮花といふ也」と記され、万民の無病息災を祈る重要な国家の祭りとして定められております。 予って、別名、華鎮社・しずめの宮と称されています。 又、御社名の「狭井」とは神聖な井戸・泉・水源を意味し、そこに湧き出る霊泉は太古より「くすり水」として信仰の対象になっています。 御例祭   4月10日 鎮花祭   4月18日 狭井神社の霊泉この霊泉は神体山・三輪山から滾々(こんこん)と湧き出た御霊水で清澄且つ一種の風味を称え遠近より拝受に来る者四時絶える事がありません 酒造家は醸酒製薬業者は製剤に、更には書画に精進される方はその用水にいずれも広大な霊徳を頌して当狭井神社の御神威とともに天下に伝承せられています ◆御神水についてのお願い この御神水は神体山・三輪山から湧き出た御霊水です。古くから霊験あらたか「くすり水」として病気平癒、身体健康、福寿延命等の願いを込め毎日大勢の方々が受けておられます。 正に御神水は信仰のお水であり神様からの贈り物であります。湧き出る水量に限りがあり時と場合によっては渇水が心配されます。皆さんで等しく分かち合って戴かれることを願っております。 然しながら近年ミネラルウォータ感覚で大量にお持ち帰りになる方を見受けます。お一人で大量に汲まれますと水量が底をつき他の参拝者にご迷惑を及ぼします。宜しくご理解ご協力の程お願い申し上げます。