福王子神社(ふこっさん)

第58代光考天皇の后で、宇多天皇の母君班子女王を祀る。 900年(昌泰3)、68歳で崩御された際の陵墓の地と伝わる。 神社名は班子女王が多くの皇子皇女を生んだ事に由来する。 仁和寺の守護神であるとともに近隣旧6ヶ村の氏神。 江戸時代徳川三代将軍家光公により創建された現在の本殿は、一間社春日造、屋根は珍しい木賊(とくさ)葺で、拝殿・鳥居・棟札及び石燈籠弐基とともに国の重要文化財に指定される。 本殿の左には丹波国から都の宮中に氷を運ぶ道中に息絶えた役夫の霊を慰める「夫荒社」と年々大きくなっていると言い伝えられる「さざれ石」がある。 他に、拝殿正面に掲げられていた鳴滝砥石の額は一見の価値あり。

猿田彦神社(山ノ内庚申)

祭神、猿田彦大神。平安期、最澄が座禅のために霊窟を求めて探して歩いていたところ、猿田彦神が現れてこの地を示ししため、座禅石の傍らに猿田彦神を祀ったことを創祀の始めと伝える。 その後嵯峨天皇が行幸の際には猿田彦が道案内をしたため、天皇は社殿を建立したといわれる。 中風・神経痛・腰痛などの病気封じの信仰がある。 玄関、勝手口、金庫などにつるす盗難除け左なわや手芸上達を願う招福布猿が授与される。 京洛三庚申の一社に数えられている。

下桂御霊神社

御祭神として、左大臣橘諸兄より二代後の左中弁従四位上橘入居の御子橘朝臣逸勢公をお祀りしています。 天下に知られる能書家、特に書に秀でていたため、比叡山などの額にも逸勢公が用いられたほどです。 天皇の仰せにより、唐の国に留学もされ、唐にて秀才公と誉められ、帰国しましたが九州の伴之氏謀反(承和の変)の事件に加わっていたとのこで伊豆に追放されてしまいました。 しかし、途中静岡の三ヶ日の郷で逸勢公が亡くなりました。 やはり逸勢公は元住んでいた王城のことが忘れられなかったのか、都では不思議なことが数多く起きたため、天皇の仰せが出て都に帰っても良いとされた時、すぐに逸勢公を御霊八社の内にお祀りしました。 橘逸勢公をお祀りした下桂御霊神社の創建は、876年(貞観18年)と伝承されています。 例大祭は毎年5月第3日曜日に行っています。 樹齢400年のムクロジの樹があります。

今宮神社

祭神は素戔嗚命。もと「祇花園(ぎはなぞの)社」又は「花園社」と称した。 1015年、三条天皇の長和4年夏、疫病が流行した折、託宣により創祀された(『百錬抄』)。 1644(寛永21年)に仁和寺門跡・覚深法親王の御本領により本殿・拝殿及び末社が造営された。

児神社

広沢池灯籠流しが行われる。 毎年8月16日7時より催されるお盆の精霊送りの行事。広沢池の西南にある児神社(ちごじんじゃ)で受付。 回向(塔婆施餓鬼供養)をした後、広沢池一面に五色の流し灯籠を水に浮かべる。 鳥居形の送り火とのコントラストはまさしく幽玄の世界そのものである。

木島坐天照御魂神社 (蚕の社)

秦氏とのつながりが深く養蚕、機織、染色技術の中心地として境内に摂社、養蚕神社がありそれが俗称の由来。 製糸業者の信仰がいまもある。境内の池中に明神鳥居を三つ組合せた珍しい石鳥居(三柱鳥居)がある。 建立:推古天皇時代頃 ◆由緒 延喜式内社で祭神は天之御中主神外四柱(大国魂神・穂々出見命・鵜茅葺不合命・瓊々杵尊)を祀っている 創建年月日は不詳であるが「続日本紀」大宝元年(701)四月三日の条に神社名が記載されていることからそれ以前祭祀されていたと思われる古社である 天之御中主神を主として奉り上は天神に至り下は地神に渉り御魂の総徳を感じて天照御魂神と称し奉り広隆寺創建とともに勧請されたものと伝えられる学問の神であり祓いの神でもある ◆養蚕神社(蚕ノ社)本殿右側の社殿 雄略天皇の御代(1500年前)秦酒公呉国(今の中国南部)より漢織・呉織を召し秦氏の諸族と共に数多くの絹・綾を織り出し「禹豆麻佐」の姓を賜る この地を太秦と称し推古天皇の御代に至りその報恩と繁栄を祈るため養蚕・織物・染色の祖神を勧請したのがこの社である 養蚕・織物・染色の守護神である ◆元糺の池 境内に「元糺の池」と称する神池がある 嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元糺」と云う 糺は「正シクナス」「誤ヲナオス」の意味で此の神池は身滌(身に罪や穢のある時に心身を浄める)の行場である 夏期第一の「土用の丑」の日にこの神池に手足を浸すと諸病にかからぬと云う俗信仰がある ◆三柱鳥居 全国唯一の鳥居である 鳥居を三つ組み合わせた形体で中央の組石は本殿ご祭神の神座であり宇宙の中心を表し四方より拝することができるよう建立されている 創立年月は不詳であるが現在の鳥居は享保年間(約三百年前)に修復されたものである 一説に景教(キリスト教の一派ネストル教 約1300年前に日本に伝わる)の遺物ではないかと云われている」

芸能神社

芸能神社は車折神社の境内社の一社で、昭和32年に他の末社より御祭神・天宇受売命を分祀申し上げ創健した神社である。芸能神社周辺天宇受売命が芸能・芸術の祖神として古来より崇敬される所以は、 「神代の昔、天照大御神が弟である素戔鳴尊の行いを逃れ、天の岩戸にお入りになり固く扉を閉ざされたためにこの世が暗闇になった。 その時、天宇受売命が岩戸の前で大いに演舞され、天照大御神の御神慮をひたすらにお慰め申されたところ、大御神は再び御出現になり、この世は再び光を取り戻した。」 という故実にもとづく。