古御香宮

日本第一安産守護之大神とされる「神功皇后」を始め九柱の神をまつる当社は、深草大亀谷敦賀町を中心とする「峠」一帯の氏神として深く信仰されている。 文禄三年(一五九四)、豊臣秀吉は伏見築城にあたり、城内鬼門除けの神として伏見九郷の石井村にあった「御香宮」をこの地に遷し、本殿等を造営して社領三百石を寄進した。 秀吉の没後、天下人となった徳川家康は慶長十年(一六〇五)城下町の人心の安定を企って、この神社を再び元の地に戻した。秀吉の造営した本殿は江戸末期に大破し、その後に建てられたのが現在の本殿である。(平成十年五月解体修理) こうした経緯から地元の人々より「古御香宮」と呼ばれ、十月御香宮神幸祭には神輿の御旅所として神輿渡御がある。 秀吉がここに神社を祀ったのは、隣接する「桓武天皇陵墓参考地」を保護する必要上とも伝えられている。 尚、明治維新、すふぃみの戦いに際して、一時御香宮の御神霊が遷御された。

羽束師坐高御産日神社

御祭神は「むずび」の霊力をお持ちのタカミムスビノ神、カンミムスビノ神です。 御鎮座は477年です。 この地は桂川、旧小畑川等河川の合流するところで、農耕、水上交通に恵まれ開けてきました。 延喜の制がととのえられて式内大社に列せられ、式内第一の称号をいだき天下泰平の加護を給いました。 羽束師祭(5月)は御創建を祝う伝統ある祭りです。

伏見神宝神社(神宝さん)

伏見稲荷大社の千本鳥居を抜けていく途中の丘に鎮座。 天照大御神を主祭として稲荷大神を配祠、十種の神宝を奉安。創祀 は平安期にさかのぼり、かつては稲荷山上に祀られていた。 仁和年間(885~89)宇多天皇は、大神宝使を発遣するなど、皇室の信仰も篤かったが、政変などにより中世以降は廃れていった。 1957年(昭和32)に再建される。 社名の「神宝」は奉安の十種の神宝(沖津鏡、辺津鏡 、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼)をいい、物部氏の祖神、饒速日尊が天上よりもたらしたとされる。 4/18神宝大祭鳴動神事、 7月土用中の日鎮魂大祭、11/3御火焚祭。

與杼神社

豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、高皇産霊神(たかみおすびのかみ)、速秋津姫命(はやあきつひめのみこと)を祀り、古くは、淀姫(よどひめ)社、又は水垂(みずたれ)社とも呼ばれていた。 社伝によれば、応和年間(961~64)、僧千観内供(せんかんないぐ)が、肥前国(佐賀県)河上村の淀大明神を勧請したことに始まると伝えられている。 当初、水垂町に祀られ、桂川の水上運輸の守護神として人々から崇敬されていたが、明治33年(1900)に淀川改修工事のためここに移された。 境内には、本殿、拝殿、神輿庫(みこしぐら)をはじめ、日大臣(ひだいじん)社、長姫(ながひめ)社、川上社、豊丸社などの各社殿が建てられている。 中でも拝殿は、慶長12年(1607)に建造されたもので、国の重要文化財に指定されている。 毎年11月に行われる例祭は、「淀祭」と呼ばれ、多くの人々で賑う。

乃木神社

当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。

藤森神社

素盞鳴命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。 本殿は、正徳2年(1712)中御門天皇より賜わった宮中内侍所(ないしどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。 また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は、磐長(いわなが)姫命を祀る。 とくに、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 社殿は、永享10年(1438)足利義教(よしのり)の造営と伝えられ、重要文化財に指定されている。 なお、毎年5月5日に行われる当社の例祭、藤森祭には、甲冑鎧に身を固めた武者が供奉し、また境内では「駈馬(かけうま)」が行われる。 これは、当社の祭神が、武神と称されることに因むものである。 ◆由緒 平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴(すさのおの)命(みこと)、神(じん)功(ぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土(うぶすな)神(がみ)として崇敬されている。 「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年五月五日に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈(かけ)馬(うま)神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。 また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。 本殿は、正徳二年(1712)に中御門(なかみかど)天皇より賜った宮中内(ない)侍所(しどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐(いわ)長(なが)姫(ひめ)命(のみこと)を祀る。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀(まつ)られた社(やしろ)の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名付けられたという名水「不二(ふじ)の水」は有名である。 六月の紫陽花(あじさい)が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。