素盞鳴命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。 本殿は、正徳2年(1712)中御門天皇より賜わった宮中内侍所(ないしどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。 また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は、磐長(いわなが)姫命を祀る。 とくに、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 社殿は、永享10年(1438)足利義教(よしのり)の造営と伝えられ、重要文化財に指定されている。 なお、毎年5月5日に行われる当社の例祭、藤森祭には、甲冑鎧に身を固めた武者が供奉し、また境内では「駈馬(かけうま)」が行われる。 これは、当社の祭神が、武神と称されることに因むものである。 ◆由緒 平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴(すさのおの)命(みこと)、神(じん)功(ぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土(うぶすな)神(がみ)として崇敬されている。 「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年五月五日に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈(かけ)馬(うま)神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。 また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。 本殿は、正徳二年(1712)に中御門(なかみかど)天皇より賜った宮中内(ない)侍所(しどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐(いわ)長(なが)姫(ひめ)命(のみこと)を祀る。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀(まつ)られた社(やしろ)の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名付けられたという名水「不二(ふじ)の水」は有名である。 六月の紫陽花(あじさい)が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。
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八坂神社御供社
伏見稲荷大社
ご鎮座は和銅4年(711)とされ、全国各地に祀られている稲荷神社の総本宮。 古くは食物・蚕桑あるいは諸願成就の神、中世から近世にかけて商業神・屋敷神へとご神徳も拡大。 本殿(重文)は明応8年(1499)の再興。 重要文化財の権殿のほか重要文化財の摂末社も多い。 稲荷山の神蹟を巡拝する‘お山巡り’は約4キロ、参道にある数千本の鳥居は壮観。 2月初午の日はご鎮座ゆかりの日として古来、民衆が群参する。 4月20日に近い日曜日(神幸祭)から5月3日(還幸祭)は「稲荷祭」。 平安朝からの伝統で同社最大の祭典。 5基の神輿が、南区西九条のお旅所に渡御し、還幸祭に京都駅周辺~松原通まで拡がる氏子区域を巡幸して帰社する。 この神輿は全国でも優美華麗で、且つ重いものとして知られる。 11月8日は「火焚祭」で、秋の収穫のあと、春に迎えた穀霊を再び山に送る神事。 十数万本の火焚串を火床で焚き上げ、神恩に奉謝すると共に家内安全・罪障消滅などを祈願。
御香宮神社
城南宮
平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。 平安時代の末、白河上皇によって城南離宮(鳥羽離宮)が造営されると一層崇められ、城南祭では流鏑馬(やぶさめ)や競馬(くらべうま)が行われた。 また、離宮は方違(かたたが)えの宿所や熊野詣での精進所となり、方除の信仰が高まった。承久3年、後鳥羽上皇が城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を集め、承久の乱が起きたことは名高い。 江戸時代以来、城南祭では三基の神輿が氏子地域を渡御、「餅祭り」とも称され大いに賑う。 皇室の崇敬厚く、孝明天皇は攘夷祈願の祭に行幸されて吹散(ふきちり)を賜り、慶応4年正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が轟き、鳥羽・伏見の戦いが始まり、明治維新を迎えた。 日月星を象った三光の御神紋は神功皇后の旗印に因んで方除の御神徳を表し、建築・転宅・交通・旅行安全の神として信仰が深い。 神苑「楽水苑」は「源氏物語 花の庭」と称され、四季の風情に富む名園として名高く、春秋に「曲水の宴」が雅やかに行われる。 ◆歴史の回り舞台 平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建された城南宮。国土守護の国常立尊、武勇に秀でた八千矛神(大国主命)、安産と育児の神様でもある息長帯比売命(神功皇后)をお祀りしています。 平安時代の末、交通の要衝でもあり、風光明媚なこの地に白河上皇が壮大な離宮(城南離宮、鳥羽離宮)を造営して院政を開始されると、歌会や宴、船遊びや競馬がしばしば行われ、王朝文化が華麗に花開きました。 また熊野詣でに先立ち、道中の安全を祈って城南離宮で身を清めて出発する慣わしとなり、方角の災いを除く方除・旅行安全の信仰が高まりました。 承久三年(1221)には後鳥羽上皇が城南離宮の流鏑馬揃えと称して武士を集めて承久の乱を起こし、慶応四年(1868)正月、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が鳴り響き、烏羽・伏見の戦いが始まりました。 平安貴族の世へ、武士の世へ、そして明治維新へ、ここ城南の地は、新しい時代の幕開けを告げる歴史の舞台です。 ◆三光の紋 神功皇后の旗印にちなむ三光の紋は、日と月と星を組み合わせた極めて珍しいこ神紋で、昼夜の隔てなく遍く及ぶ、城南宮の広大なこ神徳を表しています。 平安朝のたたずまい 流れ造りの本殿、変形入母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった社殿は、城南宮独特の複合建築、総檜造りです。勾配の緩やかな檜皮葺の屋根をはじめ、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。 本殿の東側、平安の庭に臨んで建つ寝殿造りの神楽殿では、結婚式や特別祈祷を行っています。 ◆城南祭(神幸祭) 平安時代の末から盛大に行われている歴史ある祭礼。正午過ぎより、それぞれ重さ1.5トン近くある三基の豪華な神輿の渡御が始まり、氏子区域を練り歩きます。夕刻、提灯と松明の明かりの中、神社に神輿が還御する様子は壮観です。祭りに訪れた人々に餅を惜しげも無く振舞う慣わしがあり、「餅祭り」は季語になっています。 ◆源氏物語 花の庭 四季の庭を備えた、光源氏の大邸宅「六条院」の理想の姿を実現するべく白河上皇は城南離宮の造営に取り組んだと言われ、大がかりな造築・造園工事が行われ、時折々の景色には言葉に尽せない風情がありました。城南宮の神苑-楽水苑-には「源氏物語」を彩る百種余りの草木が植栽され、四季の情趣を味わっていただけます。 ◆春の山 城南離宮の築山の一つである春の山。春の草木が次々に花咲き、美しく装います。 ◆平安の庭 社殿を背景に広がる池に、段落ちの滝と遣水が注いでいます。秋の七草から紅葉まで、秋の景色は格別です。 ◆室町の庭 池泉廻遊式の庭園で、歩くたびに景色が変わります。紅枝垂れ桜、舟着き場の藤の花、色とりどりの躑躅を楽しむことができます。お茶席「楽水軒」で、お抹茶を味わいおくつろぎください。 ◆桃山の庭 大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、安土・桃山時代の豪壮な気風を映しています。 ◆城南離官の庭 杜若の小道に続く枯山水の庭園。城南の地が最も華やかであった離宮時代の風景を表しています。
剣神社(剣さん)
新熊野神社(権現さん)
平安後期、熊野詣盛んな頃、後白河上皇が平清盛に命じ、熊野の神をここに勧請するため、熊野より土砂材木等を運び社域を築き社殿を造営、神域に那智の浜の青白の小石を敷き霊地熊野を再現した熊野の新宮。 創建は1160(永暦元年)境内の大樟は当時熊野より移植した後白河上皇お手植といわれている。 又当社は、日本能楽史上紀元元年といわれる1374(応安7年)観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満の面前で「猿楽」を演能した地としても著名。 現本殿は1673(寛文13年)聖護院道寛親王が再建した市指定重要文化財。 5月5日「新熊野祭」鳳輦巡行。 H26年は9月8日(仲秋の名月)「大樟祭」。 11月23日お火焚祭。 12月23日「つなかけ祭り」。 H27年は1月12日(成人の日)「左義長祭」、6月30日「茅の輪くぐり」。 なお、大樟祭・左義長祭は年によって実施日が変わります。
青龍寺(伽羅観さん)
大将軍神社
素戔嗚尊を主祭神とし、藤原兼家を配祀する。 794年(延暦13)平安京造営の際、桓武天皇が大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つ。 特にこの地は京に入る七口の一つ、三条口の要地に当るため、邪霊の侵入を防ぐ意を以って重要視されてきた。 藤原兼家の東三条殿はこの周辺にあったが応仁の乱で荒廃、現在では当社境内に東三条社として名跡を留めている。 ◆由緒 素盞嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とし、相殿には関白藤原兼家(かねいえ)公を祀る。 桓武天皇は、平安京造営にさいし、大内裏(だいだいり)鎮護のため四方四隅に神を祀り、四方に和魂を祀って天王ととなえ、四隅に荒魂として素盞嗚尊を祀って大将軍と称したと伝えられ、当社は東南隅の大将軍社の由緒を伝えている。 ただし、社殿はたびたびの戦火によって廃絶し、文政12年(1829)朝議大夫(ちょうぎたいふ)陸奥守千葉正胤(ちばまさたね)がここに再興した。 大将軍神社の由緒に加えて、この地は平安京三条口の交通の要地にあたり、悪神の侵入をふさぐため荒魂を奉祀することは中世以来の長い伝統をもっていたと考えられる。 境内の東三條社は東三條殿(ひがしさんじょうでん)の故地で平安中期、藤原兼家・道長らの邸宅として景勝の美をうたわれた屋敷のことである。 その故地は現在の釜座(かまんざ)三条あたりと推定されるが、この附近一帯の地名によって当社にその名跡をとどめているのである。
粟田神社
大己貴命の疫病除け御神託による創建で、‘牛頭天王’を祭った粟田口の総社だった。 のち天台宗青蓮院門跡の鎮守社に。 社殿は平安初期にできたが江戸中期から末期に本殿、拝殿とも再建。 スサノオノミコトを祭り、厄除け、旅立ち守護の神。 「粟田祭」は10月体育の日前々日・前日・体育の日・15日。 体育の日前日は祭の呼びもの剣鉾18基が飾りつけられ、「阿古陀鉾」「地蔵鉾」の2基が大燈呂とともに知恩院前の「瓜生石」前にて「れいけん」の祭りを行った後に夜渡りする。 体育の日は神幸祭で剣鉾巡行と神輿渡御。15日は例大祭。 この剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれている。 ◆由緒 平安時代 清和天皇貞観18年(876)春に神祇官並びに陰陽寮より、「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。天皇ただちに勅を下され、五畿七道の諸神に国家と民の安全を祈願された。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願された。その満願の夜、夢枕に老翁が立ち、「帝都の東祇園の東北に牛頭天王素盞嗚尊に縁の地在り。その地に我を祭れば必ず国家と民は安全なり。我は大己貴神なり。」と告げて消えられた。 興世は夢とは思わず神意なりと奏上し、勅命により奉行としてこの地に社を建ててご神霊をお祭りした。 また一説には上古、粟田氏の氏神として創建されたとも伝えられる。 ◆粟田神社 三棟 本殿・幣殿・拝殿 粟田神社は、旧粟田村の産土神である。江戸時代までは感神院新宮、あるいは牛頭天王を祭ることから粟田天王社または粟田八大王子社と呼ばれていたが、現在は素戔嗚尊ほかを祭神とする。 社伝によると、貞観十八年(876)に従五位上出羽守藤原興世が勅を奉じて勧請したことに始まり、その後天台座主東陽坊忠尋大僧正が永久年間(1113~18)に再建するが、応仁の乱で焼失し、明応9年(1500)に吉田兼倶が再興したという。 本殿・幣殿は昭和八年の棟札写から、文化2年(1805)6月に焼失後、文政6年(1823)に再建されたことが明らかとなる。建物は、三間社流造の本殿の前に桁行二間・梁行三間で正面に方一間の拝所を付設した幣殿が接続する複合社殿である。拝所の彫刻装飾には時代的特色がみられ、また流造の屋根の前に入母屋造・妻入、さらにその正面に向唐破風造の屋根を続けて変化に富んだ外観をみせており、江戸時代後期の複合社殿として価値が高い。拝殿は、確実な史料を欠くものの元禄十六年(1703)に建てられたと伝え、細部様式もこの頃のものと判断される。本殿・幣殿より建築年代は遡るものの、これらと一連のものとして貴重である