桓武天皇に遷都を進言し、平安京の都造りを推し進めた和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉広虫(ひろむし)を祭神とする神社。 もとは、神護寺境内にあったが、明治19年(1886)この地に移された。 広虫が慈悲深く、京中の孤児を養育したことにより子育て明神と呼ばれ、育児の神として信仰される。 拝殿の前に狛犬(こまいぬ)のかわりに猪像があるが、これは清麻呂を猪が守護したという故事にちなむ。11月1日に亥子(いのこ)祭がある。 当社は、現在に至るまで2600年以上ものあいだ保たれ続けてきた日本の皇室の血統の護持に 著しい功績を残した、歴史上に実在するところの2人の人物、すなわち和気清麻呂公主その姉君である和気広虫姫とを、神々としてお祀りするものであります。 和気清麻呂公は、護玉大明神(王の情け深い守護神)として崇められており、また和気広虫姫 は、子育明神(母と子どもの守護神)として尊崇されております。これらの神々は、およそ 120 年前にご社殿が建てられた、ここ護王神社において奉斎されておりますロ ところで、猪は護王大明神の使者として信じられており、拝殿の両脇には、守護者として猪の石像が立っています。 一対の石造りの犬(狛犬)が、日本の神社の守護者として立っているのが一般的ですが、ここでは非常に珍しい猪の守護者(漁船をご覧になるととができます。それゆえ、当社の神は、十二支の猪年(亥年)にお生まれになった方々から敬意を払われております。 参拝される方はどなたでも、護王神社の神々によって守られます。悪運や災難を遠ざけるばかりでなく、長距離の旅の安全も守られることでしょう。また、和気清麻呂公の脚が回復されたことにちなみ、足腰の難儀が快復すると信じられております。また、和気広虫姫は、戦摘により身寄りをなくしだ子供たちを引き取り育てられたことから、博愛慈悲の神様として崇敬されております。 ◆和気清原手呂公といのしし 769 年、僧である弓削道鏡は、称徳女帝への影響力によって、皇位の継承をもくろんでいた。 宮廷官僚で、あった和気清麻呂公は、皇位継承についての助言を請うために宇佐八幡へ向かうよう、称徳天皇の勅命を受けた。 清麻呂公は、以下のような託宣を受けた。すなわち、「わが国は有史以来「君臣の分」が定まっている。皇位は、天皇の子孫によってのみ受け継がれることができるのであり、臣下を君主とするようなことは決してありえない」。さらには、「したがって、皇位をのっとろうとたくらむ邪悪な者は、速やかに排除されなければならない」という信託である。清麻呂公はこの信託を持ち帰り、偽りなく称徳女帝〈復奏(報告)された。しかしながら、この行いによって、清麻呂公は道鏡の恨みを買うこととなった。 道鏡の復讐を受けて、清麻呂公は大隅(鹿児島県)へ流された。九州への長く惨めな旅の途中で、清麻呂公は宇佐の大神に、真実の信託を下されたことへの大いなる感謝を示したいと願われていたが、やがて豊前の国(大分県)にさしかかられた。すると、突然、清麻呂公の乗った奥が、300頭もの猪によって取り囲まれたのである。猪たちは、清麻呂公を、そとから40キロばかりはある宇佐八幡まで無事にお送りした。同時に、深い傷を負われていた清麻呂公の足の傷も、奇跡的に癒えたのである。これらの伝説は、日本後記の巻八の 792 年から833 年についての記事に収められている。
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梨木神社
当社は、明治18年(1885)に創建された旧別格官弊社で、三条実萬(さねつむ)・実美(さねとみ)父子をまつり、社名は、三条家の旧邸が、梨木町にあったことに因んでこのように名付けられた。 実萬は、文化9年(1812)以来47年間、光格、仁考、孝明三天皇に仕え、皇室の中興に尽し、幕府と対立し、幕府より圧迫をうけ一乗寺に幽居したが、安政6年(1859)逝去し、忠成公の号を賜った。 実美は、幕末期に尊王攘夷運動の先頭に立ち、東奔西走し、明治維新後は大政大臣に任ぜられ、明治24年(1891)逝去し、正一位を贈られ、大正4年(1915)父を祀る当社に合祀られた。 茶室は、京都御所春興殿(賢所(かしこどころ))の神饌殿を改装したもので、その井戸は、名水染井の一つとして茶人の間にうたわれている。 また、当社は、萩の名所として知られ、毎年9月の第3日曜日に催される「萩まつり」の行事には、多数の参詣者で賑う。 由緒 1885年(明治18)創建、明治維新の功労者三條実万・実美父子を祀る。 手水舎の井戸の‘染井の水’は京の三名水の一つ。 ハギの名所でもあり、9月の中旬~下旬には萩まつりも。上田秋成や湯川秀樹らの歌碑もある。
大将軍八神社
当社は、平安建都の際に都城の方除(ほうよけ)守護神として造営されたのが始まりとされ、当初は大将軍堂と称したが、江戸時代初期になって大将軍社と改められ、更に大将軍八神社となって現在に至っている。 大将軍とは、陰陽道にいう星神天大将軍で、方位をつかさどる神である。このため、建築・移動・旅行などに関し、方除け、厄除けの神として世間の崇敬を集め、その時々の権力者達も当社を厚遇したといわれる。 当社には、平安時代中期から末期にかけての大将軍信仰高潮期に奉製されたと思われる「神像」百余体が所蔵されている。このうち、武装像、束帯像、童子像合わせて八十体が昭和47年(1972)に重要文化財に指定された。いずれの像も、独特の表情、装束で異彩を放っており、興味深い。また、陰陽道に基づく、古天文暦道資料(府指定文化財)も蔵されている。
今宮神社
平安期以前から疫病鎮めに疫神を祀った社があったといわれる。 994年(正暦5)都の悪疫退散を祈り、御輿を造営し紫野御霊会を営んだのが今宮神社の起りである。現在の社殿は1902年(明治35)の再建。 「阿呆賢さん」と呼ばれる神占石は叩くと怒るともいわれ、撫でて軽くなれば願いが叶うとされる。四面仏石(現在は京都国立博物館に寄託)などが有名。 4月第2日曜のやすらい祭は京の三大奇祭の一つ。 徳川五代将軍網吉の生母 桂昌院の氏神社として、良縁開運「玉の輿」のご利益を願う人で賑う。 ◆由緒 大国主命・事代主命・奇稲田姫命の三柱をまつる神社で正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、疫病の神として信仰が厚い。一条天皇は疫病除のために御霊会を修せられ長保3年(1001)に初めてこの三柱を現地に勧請せられた。 本殿は明治35年(1902)の再建で、その西にある疫神社は本社が鎮座される以前からあったといわれ、素盞鳴命を祀る。 今宮の名は、この古い疫神社に対し、新しい宮を意味する名称である。 なお、4月の第2日曜日に当社で行う「安良居祭」は桜の開花の頃に行う病鎮めの祭事であり、京都の奇祭の一つとして知られている。
晴明神社
当神社は平安時代に活躍された天文博士安倍晴明公を祭る神社で創建は社伝によれば、晴明公没後 二年の寛弘四年 (1007年)です。 安倍晴明公は、古代豪族安倍氏の出で、伝説(葛之葉子別れ伝説)では、父安倍保名が和泉の信太 明神(聖神社)に参詣の折、助けた白狐(葛之葉姫)と結ばれて当地阿倍野で生誕されたと伝えます。 幼名は安倍童子で、資性英明学問を好み、京都に上り陰陽家の賀茂忠行と子息保憲に師事し、陰陽 推算の術を修め、天文博士、大膳大夫、播磨守を歴任し、従四位上に叙されました。占いは百占奇 中神の如しと称され、花山天皇の退位を予知し大江山の鬼退治を指導した事は有名で、又職神(精霊)を自在に駆使したと伝えます。
平野神社
北野天満宮(天神さん)
菅原道真公を祀り、一般に「北野の天神さん」と呼ばれ、学問の神として崇められている。 天暦元年(947)の創建と伝え、天徳3年(959)藤原師輔(もろすけ)によって社殿が整備され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉が、付近一帯の松原で北野大茶会を催した。 本殿(国宝)は、豊臣秀頼が、慶長12年(1607)に造営したもので、権現造(ごんげんづくり)の代表的遺構である。また、中門は三光門と呼ばれ、後西天皇筆の勅額「天満宮」を掲げている。 宝物としては、紙本著色北野天神縁起絵巻(国宝)などの貴重な文化財を蔵している。 毎年2月25日には梅花祭、10月14日には瑞饋祭(ずいきまつり)が催されるほか、毎月25日の道真公の命日には多くの参拝者で賑う。 ◆由緒 菅公御歌「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」 北野天満宮は学問の神様として親しまれている菅原道真公を御祭神とじてお祀りした神社で、今を去ること千有余年前、村上天皇の御代天暦元年(947年)に御神託により王城鎮護の神として創建され、以来「天神様」として人々の篤い信仰を集めている。 「東風吹かば・・・」の御歌や神社の神紋(梅鉢紋)にも代表されるように梅と天神様の関係は大変深く、北野天満宮の境内・梅苑一円には約50種類、2000本もの梅の木があり、紅梅白梅の美しい花弁を一重・八重と咲き誇る風情は独特の趣があり、古くより都随一の梅の名勝としてその名を馳せている。 梅苑西側には、天正19年、豊太閣が京都の整備事業の一環で築いた史跡「御土居」の一部が残存しており、秋には紅葉の美しい景勝の地としても大変魅力的である。 その横を流れる紙屋川は往古、紙漉きの川として利用したことでその名を残している。 冬から春にかけての観梅が終わると、梅の木は豊かに実を膨らませるが北野天満宮では、この梅の実を新年御祝「大福梅」(初茶用)として調整し、参拝者に授与している。 梅苑の公開は例年2月初旬より3月下旬まで予定している。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
上古この付近一帯に繁栄した賀茂氏が創祀した京都最古の神社である。ご祭神として賀茂 別雷神を祀る。賀茂伝説によれば賀茂氏の祖神建角身命の女玉依姫命(たまよりひめ)( ともに下鴨神社に奉祀)が瀬見の小川(賀茂川)を流れ下る丹塗の矢に感じて、別雷神( わけいかづちのかみ・大自然を支配する神)が出現したと伝える。 平安奠都(てんと)(794)とともに賀茂別雷神に対する信仰は高まり、特に五穀豊穣 の神の雷神を祭ることから農民の信仰を集め、全国雷神の中心となった。謡曲「賀茂」は この縁起を叙べて、五穀豊穣国土守護の神徳を讃えた曲である。皇室でも嵯峨天皇の弘仁元年(810)以来、内親王が斎王として奉仕される慣わしとなり、山城国一ノ宮とよばれて伊勢神宮と並ぶ崇敬を捧げられた。 社殿は21年毎に造営される慣例であったが中世以来中絶した。本殿(国宝)は流造神殿 の典型で権殿(国宝)とともに三間社流造、桧皮葺で文久3年(1863)の建築である。 この外社域にある中門、幣殿など40棟の建物の多くは寛永5年(1628)の造替で重 要文化財に指定されている。 毎年5月15日の賀茂祭は三大勅祭の第一で俗に葵祭の名で親しまれており、当日は平安 朝の古式ゆかしい行列も都大路に繰りひろげられる。さらに5月5日の競馬会(くらべう