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白旗神社(鶴岡天満宮内)
八雲神社
白旗神社
荏柄天神社
荏柄天神社は長治元年(1104)の創建と伝え大宰府天満宮・北野天満宮と並ぶ日本三古天神の一つです。祭神は菅原道真(845年~903年)。治承4年(1180)源頼朝が鎌倉に入り大倉に幕府を開くと、その鬼門の鎮守とされたと伝えられています。鶴岡八幡宮と共に武家政権の守護神として、また東国における天神信仰や詩歌信仰の中心となりました。 社殿奥に建つ本殿は国指定重要文化財(建造物)に指定されています。この本殿は、正和5年(1316)再建の鶴岡八幡宮若宮を、元和8年(1622)に始まる鶴岡八幡宮の造営に際し移築したものと考えられています。門の東側には、天神が降った場所とされる位置に大銀杏があり、鎌倉市の天然記念物に指定されています。
鎌倉宮
鎌倉宮は大塔宮護良親王を奉斎する神社です。 親王は延慶元年(1308)に後醍醐天皇の皇子としてご誕生になり十一歳で比叡山延暦寺に入室され、二〇歳にして天台座主となられます。当時、鎌倉幕府の専横な政治に、後醍醐天皇は国家の荒廃を憂いられ、親王と共に元弘元年六月比叡山にて倒幕の挙兵をする手筈でしたが、この計画は幕府の知るところとなり天皇は捕らえられ隠岐に配流となります。 親王は還俗し、名を護良と改め、天皇の代わりとなって楠木正成らと、幾多の苦戦にも屈せず機知を持った戦で大軍を吉野城や千早城に引き付け、この間にも親王の討幕を促した令旨に各地の武士が次々と挙兵し、中でも足利高氏、赤松則村が六波羅探題を落とし、また新田義貞が鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条一族と共に滅びます。天皇は京都に還御され親王はこの功に因り征夷大将軍となられます。しかし、高氏は征夷大将軍を欲し更に、諸国の武士へ武家の棟梁であることを誇示した為、親王は高氏による幕府擁立を危惧し兵を集めますが、逆に高氏の奸策に遭い捕らえられ、鎌倉東光寺の土牢に幽閉されます。建武二年(1335)七月二十三日残党を集め鎌倉に攻め入った北条時行に敗れた高氏の弟直義は逃れる際に、家臣淵辺義博へ親王暗殺を命じ、義博の凶刃に、親王は九ヵ月をも幽閉された御身では戦う事も出きずに御年二十八歳の若さでその苦闘の生涯を薨じられます。 明治二年二月・明治天皇は建武中興に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に遙かに想い馳せられ、親王のご遺志を高く称え永久に伝えることを強く望まれ、親王終焉の地、東光寺跡に神社造営のご勅命を発せられて、御自ら社号を『鎌倉宮』と名付けられ、こうして創建されたのが鎌倉宮です。 ◆撫で身代りの由来 村上義光公は、護良親王の忠臣にして、元弘3年(1333年)正月、吉野城落城の折、最早これまでと覚悟を決めた護良親王は、別れの酒宴をされました。 そこへ村上義光公が鎧に16本もの矢を突き立てた凄まじい姿で駆けつけ、親王の錦の御鎧直垂をお脱ぎいただき、自分が着用して「われこそは、大塔宮護良親王ぞ、汝ら腹を切る時の手本とせよ」と告げて、腹を一文字に掻き切り、壮絶な最後をとげ、その間に親王は南に向って落ちのびました。 このように身代りとなられた村上義光公を境内の樹齢103年の欅の大木にて彫り上げ、「撫で身代り」として入魂致しました。 ◆鎌倉宮と獅子頭守 御祭神の護良親王は。「戦いに赴かれる際兜の中に獅子頭のお守りをしのばせて、自らを守っていただいた」との言い伝えがあります。また獅子頭は古くから「厄(悪いもの)を食べ、幸せを招く」と言われています。
十二所神社
五所神社
御霊神社
当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政(かげまさ)公一柱となる 源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑(あづまかがみ)」に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である 祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある 景政公十六才にて奥州後三年役(永保3年 1083~応徳4年 1087)初陣す 左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し(たおし)陣中に帰り、其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり武士の鑑(かがみ)と永く仰がれている ◆由緒 御霊神社は、其の昔、鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として、五霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神し、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました この権五郎景政公の命日が9月18日で、この例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは、伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です 此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており、此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています
甘縄神明宮
和銅三年(710)8月行基の草創により染谷太郎時忠が山上に神明宮、麓に神輿山円徳寺を建立、後に寺号を甘縄院と名付けたことに始まるという。 また源頼義公が当社に祈願して八幡太郎義家を当地に生み、康平六年(1063)には当社を修復、永保元年(1081)には八幡太郎義家公が当社を修復したという。 「吾妻鏡」によれば、伊勢別宮として源頼朝公が崇敬し、文治三年(1186)10月、社殿を修理し、四面に荒垣及び鳥居を建てている。また建久五年(1194)までに頼朝公は三度、政子の方は二度、実朝公は一度参詣している。 「相模風土記」には「神明宮、里俗甘縄明神と唱う」「別当臨済宗甘縄院」とある。明治維新の神仏分離により、別当甘縄院は廃絶し、神明宮は明治6年村社に列格された。明治20年5月、五社明神社を合祀し、明治40年4月神饌幣帛料供進神社に指定された。昭和7年社号を甘縄神明神社と改称した。常には里人慣習で甘縄神明社宮と呼称している。 一、御祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 伊邪那岐尊(白山) 倉稲魂命(稲荷) 武甕槌命(春日) 菅原道真公(玉神) 一、御由緒 和銅3年庚戌(かのえいぬ)年(西歴710年)染屋太郎大夫時忠の創建です。 永保元年辛酉(かのととり)年(西歴1081年)源義家公が社殿を再建されました。 源頼朝公、政子の方、實朝公など武家の崇敬が篤く、古来伊勢別宮と尊稱されている鎌倉で最も古い神社です。 社殿の裏山は御興ヶ嶽(見越ヶ嶽とも書く)と言い、古くから歌に読まれています。 源頼義は相模守として下向の節、当宮に祈願し、一子八幡太郎義家が生まれたと伝えられています。 都にははや吹ぬらし鎌倉の 神輿ヶ崎 秋の初風