名称 | 地蔵院 |
住所 | 615-8285 京都府京都市西京区山田北ノ町23 |
拝観時間 | 9:00~16:30 受付終了:16:15 |
拝観料金 | 方丈、庭園、襖絵 一般 障害者 大人 500円 400円 大学生 500円 400円 高校生 300円 200円 中学生 300円 200円 小人 300円 200円 |
URL | http://takenotera-jizoin.jp/ |
衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、谷の地蔵、又は、竹の寺とも呼ばれている。
この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、貞治6年(1367)に、管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。
宗鏡は、恩師夢窓(むそう)国師を開山に請じて、自らは第2世となった。
以後、当寺は、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失してしまった。
その後、江戸時代の宝永元年(1704)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。
現在の本堂(地蔵堂)は、昭和10年(1935)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。
また、方丈前には、「十六羅漢の庭(じゅうろくらかんのにわ)」と呼ばれる枯山水庭園があり、本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。
◆一休禅師と地蔵院
当院は一休禅師が幼少の頃修養された寺である。禅師は、後小松天皇の皇子として、応永元年(1394)当院の近くの民家でお生れになったといわれている。後、当院で成長され、6才の時安国寺に移って本格的な修行に入られた。
その間のことは、禅師の弟子である済岳紹派の筆記になる『祖先詩偈』という本に「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかである。禅師は京都、堺などで大衆を教化し、大徳寺にも住されたが、晩年は山城薪(今の京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、そこで文明13年(1481)88才で示寂された。
◆禅宗について
禅宗は中国におこった仏教の一宗派で、達磨(だるま)大師(530年代寂)を初祖と仰いでいる。その真精神は、教外別伝・直指人心を旗印とし、ひたすらに坐禅を修して、人間に本来そなわっている仏性を徹見し、またそれと一体不二となって、淡々とした自由の境地に安住することが釈尊の説いた仏法を正しく受けつぐことであると説くところにある。今日のわが国の禅宗は臨済・曹洞・黄檗の三宗であるが、隠元禅師によって伝えられた黄檗禅は臨済禅の一種である。
◆地蔵院の由緒
当山は衣笠山地蔵院といい、臨済禅宗の寺で、夢窓国師を開山とし、伝教大師の作といわれる延命安産の地蔵菩薩を本尊としている。もともと、この地は今から七百余年前、歌人衣笠内大臣藤原家良公が山荘を営まれた処で、南北朝時代の貞治6年(1367)室町管領細川頼之公が夢窓団師の高弟宗鏡禅師を招請して伽藍を建立された。これが現在の地蔵院で、宗鏡禅師は恩師夢窓国師を開山に仰ぎ、自らは第二世となられた。その後、光厳・光明・崇光・後光厳・後円融五天皇の勅願寺に準ぜられ、場内17万平方メートル、末寺26力寺、諸国に領地54カ所をもつ一大禅刹となったが、応仁・文明の兵乱(1467~)にあい諸堂悉く灰燼となった。
しかし、皇室の深恩と細川家の援助等によりほぼ旧に復し、明治になって、竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。本堂内には本尊の地蔵菩薩を中央に夢窓国師・宗鏡禅師・細川頼之公の各木像を安置し、本堂の南には宗鏡禅師・細川頼之公の墓がある。現方丈(京都市登録有形文化財)は、貞享3年(1686)再建されたもので、庭園(京都市登録名勝)は、十六羅漢の庭とよばれ、宗鏡禅師の作、頼之公の遺愛といわれる平庭式枯山水庭園で、十六羅漢の修行の姿を表わしており、石の一つ一つは羅漢を意味している。また、境内は、京都市の文化財環境保全地区に指定されている。
羅漢とは、智恵の力をもって悩みをなくし正覚に達すること、又は智恵を得、悟を開いて世人から供養を受けるに足る聖者をいう。この羅漢に十六羅漢、十八羅漢、五百羅漢の種類があり、当院の羅漢は男山の八幡宮に願をかけているので、その方向(左手後) に少しずつ傾いている。
尚、当院に伝わる地蔵院十境の名称を挙げると次の通りである。
金剛界門 衣笠山 来鳳軒 枯木堂 観音殿
地蔵宝殿 尺竜谷 尸陀株 不動井 興雲洞
当山の開基細川頼之公は、元徳元年(1329)三河国(今の愛知県)に生れ、貞治6年将軍足利義満公を補佐して管領職となり、政治の暇に宗鏡禅師に参禅し同年当院を建立された。後、武蔵守となり、南北両朝の和合に尽力された。頼之公の「人生五十功なきを愧ず、花木春過ぎて夏巳に中なり、満室の蒼蠅掃えども去り難し、起ちて禅榻を尋ねて清風に臥せん」の詩(海南行)は日本外史にも見え、人のよく知る処である。明徳3年(1392)64才で亡くなり、墓は細川石とよばれ当院の境内にある。