名称 | 般若寺 |
住所 | 630-8102 奈良県奈良市般若寺町221 |
拝観時間 | |
拝観料金 | |
URL | http://www3.pref.nara.jp/kankou/1121.htm |
奈艮北山の名刹、般若寺は飛烏時代に高句麗僧慧灌法師によって開創され、そののち天平18年(746)に至り、聖武天皇が平城京の繁栄と平和を願うため当寺に大般若経を奉納して卒塔婆を建立し、鬼門鎮護の定額寺に定められた。
また平安時代は寛平7年(895)の頃、観賢僧正が学僧千余人を集めて学問道場の基をきずき、のち長らく学問寺としての般若寺の名声は天下に知れわたっていたという。ところが源平の争乱に際しては、治承4年(1180)平重衡の南都焼討にあい伽藍は全て灰儘に帰し、礎石のみが草むらに散在する非運に見舞われた。
しかし鎌倉時代に入って般若寺は不死鳥の如く再生する。荒廃の中からまず十三重大石塔が、名も無き民衆の信仰の結晶として再建され(建長五年頃)、続いて良恵上人が本願となって十方勧進し、金堂・講堂・僧坊をはじめとする諸堂の復興造営をはかられた。
さらに文永4年(1267)には叡尊上人発願の文殊菩薩丈六大像が本尊に迎えられ、かつての大般若寺の偉容がみごとに復興したのである。それは同時に、境内の一隅に病舎を設けて孤独な病人を助けたり、布施行の大法要を営んで人生苦にうちひしがれた苦悩の衆生を済度するなど興法利生(正しい教えを興隆して社会に奉仕する)の寺をめざす復興でもあった。
その後、般若寺は室町戦国期の戦乱による衰微、江戸期の復興、明治の排仏と幾多の栄枯盛衰を経ながらも、常に自利利他(己れを高め他を助ける)の菩薩道精神を法灯にかかげ現代の復興を俟つに至っている。
◆般若寺の御本尊
八字文殊師利菩薩騎獅像。頭髪は八髻。右手に剣、左手に般若経をのせた青蓮華をとる。獅子の背の蓮華座に坐す。瓔珞、腕釧の飾り。経蔵の秘仏本尊であった。
昭和31年の調査により、菩薩の膝前に胎内銘文が発見され、元亨4年(1324)3月7日、文観上人殊音が後醍醐天皇の御願成就のために造立したことが判明。信心施主は前伊勢守藤原兼光、大仏師法眼康俊、小仏師康成などの名が記されていた。後醍醐天皇のことは「金輪聖主」と書かれている。インド以来、理想の国王は武力ではなく仏法の力により世界を平和に統治すると考えられ「転輪聖王」と呼ばれた。また、転輪聖王の中で最も徳の高い国王は「金輪世界の聖王」と尊称される。仏教とくに真言密教を信仰された天皇は自らを大日如来の化身、「金剛薩埵」であると意識され、後に吉野山で御所を構えられた寺の名を「金輪王寺」と命名された。