名称 | 智積院 |
住所 | 605-0951 京都府京都市東山区東大路七条下る東瓦町964 |
拝観時間 | 9:00~16:30 |
拝観料金 | 大人 500円 中・高生 300円 小学生 200円 収蔵庫と庭園 共通料金 団体20名以上 50円引き 境内のみは無料 |
URL | http://www.chisan.or.jp/ |
真言宗智山(ちさん)派の総本山で全国に3000余の末寺がある。
もと紀州根来山(ねごろ)の学頭寺智積院であったが、豊臣秀吉にせめられたとき、京の学頭玄宥(げんゆう)僧正は、難を京都に避け、後に徳川家康の帰依を受けて慶長5年(1600)この地の祥雲寺を賜わり、智積院の名を継いだ。祥雲寺は、秀吉が長男棄丸(すてまる)の菩提のため建立した寺で、当時は東山第一といわれた。
収蔵庫にある豪華な襖絵(国宝)は祥雲寺以来のもので、長谷川等伯の筆といわれ、桃山時代の代表的障壁画として知られている。このほか、張即之筆金剛経(国宝)、南画の祖といわれる王維の瀧図(重要文化財)をはじめ、仏画・経巻など多数の指定文化財を蔵している。
庭園(名勝)も同じく桃山時代の作庭といわれ、築山と苑池からなる観賞式林泉で京洛名園の一つに数えられている。
◆由緒
智積院は真言宗智山派の総本山であります。真言宗は弘法大師空海上人に依り開かれましたが、降って三百年後平安末期に興教大師覚鑁上人が現われ、衰微した宗風と真言教学を振興し、刷新されました。その教学は鳥羽上皇の信任を得、高野山に大伝法院、密厳院等を開かれ、学徒の教育に当られました。
晩年故あって、根来塗で有名な紀州(和歌山県)の根来山に移られました。時代を追うごとに学徒の数も増加し、戦国時代の最盛期には坊舎二千七百余、住侶六千、所領七十万石といわれております。
その根来も天正十三年(1585)住山の僧兵が時の為政者豊臣秀吉に刃向って、一山ことごとく焼払われ、滅亡してしまいました。その時、根来山塔頭院の学頭(今の学校長)をされていた方が、智積院の玄宥僧正でした。玄宥僧正は多くの学僧と共に、難を高野山、京都にさけ根来の再興を願われていました。
降って徳川家の時代となり、祐宜僧正、日誉僧正の代になりますと、智積院能菓(住職)の学識に日頃帰依されていた家康公は、秀吉が愛児鶴松の菩提を葬う為に建立した祥雲禅寺を、元和元年(1615)五月大阪城が落ちると共に寄進しました。時の能化は之を五百仏頂山根来寺智積院と改名し、以来法灯絶ゆることなく今日に至っています。
しかしこの間、再度の火災に遇い、特に明治15年一山の中心である金堂を焼失以来、宗団、総本山の宿願であった新金堂を昭和48年の宗祖弘法大師ご誕生壱千二百年記念事業として建立を計画、昭和50年6月15日、一宗の風格ある堂宇と、昭和の祈りをこめた本尊大日如来の尊像が造顕されました。その豪華さは東山随一を誇りうる壮麗な建物であります。
宗団には全国に有名な成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王院等の大本山を初め、東京都の高幡山金剛寺、栃木県の出流山満願寺、名古屋市の大須観音宝生院を別格本山として現在全国に三千余力寺を擁し、また、全国約三十万人の檀信徒の総菩提所、総祈願所としての御本山であります。
◆障壁画(国宝)
智積院に現存する絵は楓図、桜図、松に秋草図、松に黄蜀葵図、雪松図、松に立葵図等です。しかし、過去に何度か不慮の災禍に遭い、原形の四分の一以下にカットされております。作者は長谷川等伯一派。等伯は石川県の七尾で生れ、墨絵を専門に仏画や肖像画を描いていました。上京して狩野派の門をたたきましたが作風が合わず、一派と対立する人となりました。
その頃千利休と知己になり、大徳寺に出入しているうちに所蔵の名画に接し、独自の画風を創造して行きました。この時期の作品では松林図や枯木猿猴図が有名です。祥雲禅寺の障壁画にあっても、水墨画と同様独自のみずみずしい画境を示しました。特に桜図と楓図は、日本の壁画を代表するものとして世に知られています。
桜図は長子久蔵二十五才の作で、二本の桜を中心に、空間には弾力のあるしなやかな枝、画面全体に胡粉で盛上げた直径六センチもある八重の花を蒔き散し、地面には野の草花を配しています。他に立体感を作り出す金雲や群青の池。画面は大胆な構図のもと、金と白とを基調とし、春爛漫の景を描き出しています。作者久蔵は二十六才の若さで生を閉じていますが、翌年父等伯(五十五才)が人生無常の感を振りきり、自己の生命力を画面一杯に傾むけて楓図を描さ出しました。
画面中央に描き出された幹や枝の激しい動き、紅葉や秋草の写実性、空や他の抽象的な表現、また色彩は強烈なコントラストとパステルカラー調の配色を施しています。それらの全てが和合し生々と明るく絢爛豪華に描かれています。画壇の主流をなす狩野派の人たちが、威圧的か装飾的かの傾向に走ったのに対して、長谷川派は理想を見事に達成しました。彼らの会得した不変の法は、近代の画壇にも大きな影響を与えています。
◆名勝庭園
智積院の庭園は、利休好みの庭と伝えられ中国の廬山を形どって造られています。正面右側、石橋より奥の方は祥雲禅寺時代に造られたもので、桃山時代の特色である自然石のみを用い、刈込を主体とし、また庭の外にある大木をも借り、深山の中にあるような奥行のある野性的な雄大さ勇壮さを感じさせてくれます。滝の落ちている正面を見ますと、石組と植込とが交互に並び、洗練された美しさが築庭の極限を表現し、江戸時代好みの感じを与えてくれます。これは智積院第七世運敞僧正(江戸三大名墨家)によって修築されたものです。
また池が建物の下に入りこんでいる所は、私たちを寝殿作りの泉殿か釣殿に居るように思わせてくれます。全体的に見ますと、庭自体は小さな面積にもかかわらず、他に類の無い雄大さと重厚味を感じさせ、その反面小さなもの特有のきめの細い所を見せてくれます。数多い名勝庭園の中でも傑作の一つとして世に知られています。この庭の見頃は植込の種類が多い為に、四季折々に私たちの日を心を楽しませてくれますが、特に五月下旬から六月下旬にかけてのサツキの頃が庭に一段と艶やかさを添えてくれます。