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高山寺

名称 高山寺
住所 616-8295 京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8
拝観時間 8:30~17:00
拝観料金 石水院拝観料 一般・中学生以上 600円 小人       300円 6歳以下無料 紅葉時は入山料が必要 500円。
URL http://kosanji.com/

栂尾(とがのを)山と号する真言宗の寺である。
寺伝によれば、宝亀5年(774)光仁天皇の勅願によって開創され、当初、神願寺都賀尾(とがを)坊と称したが、建永元年(1206)後鳥羽上皇の院宣によって、明恵(みょうえ)上人が華厳宗復興の道場として再興し、寺名を高山寺と改めたと伝えられている。
広い境内(史跡)には、石水院(国宝)、開山堂、金堂などが建ち並び、中でも石水院は、鎌倉時代初期の寝殿風住宅建築で、後鳥羽院の賀茂別院を移築したものといわれている。
寺宝としては、鳥羽僧正筆の鳥獣人物戯画(国宝)をはじめ、数多くの貴重な文化財を蔵している。
また、境内の茶園は、鎌倉時代初期に明恵上人が栄西禅師から贈られた茶種を植えたところで、ここから全国に茶が普及したといわれている。
この由緒から、毎年11月8日には、宇治の茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。

◆由緒
後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」で知られる当山は、774年(宝亀5年)光仁天皇の勅願によって開創され、神願寺都賀尾坊といったが、814年(嵯峨天皇の弘仁5年)、栂尾十無尽と改称された。

その後、876年(貞観18年)には後の十三台天台座主となり、天神縁起絵巻で菅公の怨霊を鎮めたといわれる法性房尊意僧正が、11才より4年間当山で修行し、大いに法力を得たと伝えられている。

鎌倉時代、明恵上人(成弁、後に高弁と改名)が出て、後鳥羽上皇・近衛・鷹司・西園寺家等の帰依により堂坊を復興し中興開山した。

明恵上人は、後鳥羽上皇の院宣によって南都東大寺の華厳を根本とし戒密禅を兼ねた寺とし、1206年に勅額「日出先照高山之寺」を賜ったので、寺号を「高山寺」と改称した。

その後、当山は仏道実践の霊域として護持され、いつの時代も上下の崇信を受け、特に藤原氏一門には、氏神鎮守社春日明神とならび氏寺のごとく保護された。

室町末期の戦乱にまきこまれて堂坊の多くを焼失したが、江戸時代になり、1636年(寛永13年)永弁・秀融上人が堂坊の再興にあたり旧観をやや回復した。

明治維新後、寺運の衰えたこともあったが、昭和6年、明恵上人七百年遠忌記念として、茶祖上人の茶恩に報い、その遺香を後世に伝えるため全国の茶道家の懇志を集めて茶室遺香庵が建てられた。

また、昭和34年には、国宝や重要文化財、史学上の文献等の永久保存のために収蔵庫が建設され、昭和36年には、菩提心の勧発の拠り所として、開山堂横に聖観世音菩薩像が安置された。

昭和56年の750年遠忌には、春日明神社が篤志家により金堂横に復興された。

◆明恵上人
紀州有田郡吉原に生まれ、父は平重国で高倉院の武者所、母は豪族湯浅権守藤原宗重の四女である。八才の時母は病死し、父も頼朝との戦いで戦死して孤児となり、九才の時文覚上人及び叔父上覚上人を頼って高尾山神護寺に入り、仏道修業に努め、

さらに東大寺や建仁寺にも学び、華厳、真言、禅等の奥義を体得し、東大寺において学頭として華厳学を講じられたこともあった。上人は限られた宗派や教説にとらわれることなく、ひたすら本師釈迦牟尼世尊に随順し、その教えのままに生き、清純無私な無我の行者、真の仏弟子として生涯を貫かれたのである。

世俗面においても、上人は北条泰時に政治の肝要として無欲を教え、承久の乱の公家方未亡人に、善妙尼寺を造って教化救済をされた。建礼門院が上人によって受戒されたことなどは有名である。

遺訓に「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようわ)の七字があるが、これは人間日常の簡短にして深奥なる教えである。

◆石水院
国宝。明恵上人が後鳥羽院より学問所として賜った建物で、上人時代の唯一の遺構である。

金堂の東の位置にあったものを、明治二十二年現在地に移した。簡素な中に優雅さを保ち、きわめて機能的な構造をもっており、生活の知恵の結晶ともいえる住宅建築の傑作である。

「阿留辺幾夜宇和」の厳しくも合理的な精神が今もなおうかがわれる。

南面長押の上の後鳥羽院の勅額「日出先照高山之寺」、西面に鉄斎の額「石水院」が掛けてある。

京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8

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