3月最終の日曜、隨心院。ちょうどはねず(うすべに色)の梅が咲くころ。 小野小町を偲ぶ土地の童唄と踊りが、隨心院前庭の梅林に屋台を組んで催される。 小野小町・少将に扮した少女の踊りが人目を引く。 一時途絶えていたが1973年(昭和48)に復活した。
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由岐神社
大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀っている。 天慶3年(940)御所内に祀られていた祭神をこの地に勧請(かんじょう)したのが当社の初めといわれ、天皇の御病気や世上騒擾(そうじょう)のとき、社前に靭(ゆぎ)(矢を入れる器具)をかかげて平安を祈ったため靭社の名がついたと伝え今日では由岐神社とかえている。 拝殿(重要文化財)は別名を荷拝殿または割拝殿といい、桁行六間・梁間二間・入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひはだぶき)で、慶長15年(1610)豊臣秀頼によって再建された。 崖にのぞんで建てられ、後方は崖上に出て、前部は舞台造となっている。 このほか石造の狛犬(こまいぬ)一対も重要文化財に指定されている。 有名な鞍馬の火祭はこの社の例祭で、毎年10月22日夜行われ、祭神遷座の時、葦のかがり火をたいたという故事にかたどり里人が大小さまざまの松明(たいまつ)をかついで鞍馬街道から当社へ参詣するので一面火の海となって壮観を極める。 ◆御祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)(別称 大国主命) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 相殿 八所大明神 ◆御由緒 天慶3年(940)旧暦9月9日に天下泰平・万民の守護神・都の北方の鎮めとして朱雀天皇の詔により御所に御祀りされていた由岐大明神がこの地に御鎮座なされました。 その様子を遺し伝えたのが『鞍馬の火祭』の起源であります。その後、豊臣秀吉公の崇敬も厚く御本殿、拝殿は豊臣秀頼公によって再建されました。現在は、拝殿(国の重要文化財)のみが残っております。 ◆御神徳 御祭神は国を治め、人民の生活をお教えになり、特に医薬の道をお授けになった医薬の祖神であります。そのため商売繁盛・病気平癒・縁結び・安産・厄除火難除の神様として古くより信仰をあつめております。 御神階 天正17年(1589年)御陽成天皇正一位宣下 例祭 10月22日「鞍馬の火祭」
鞍馬寺
狸谷山不動院
貴船神社
創建年代不詳。水の供給を司る神「たかおかみのかみ」を祀り、歴朝はじめ現在も農漁業、醸造業者らの信仰が厚い。 社殿は1055年(天喜3)元々の御鎮座地より現在の本宮の遷へ移されたという。 元々の御鎮座地は奥宮としてお祀りされている。古くから「氣生根(きふね)」とも表記され、氣力の生ずる根源の地であると信仰される。御神徳は運気隆昌、諸願成就。 また、平安時代の女流歌人、和泉式部も参詣し、不和となった夫との復縁祈願が成就した逸話があり、えんむすびの神としても若い世代より絶大な崇敬を集めている。 水徳神高おかみの神(たかおかみのかみ)を祀る旧官幣中社で、社名は古くは木船、貴布祢とも書いたが、明治4年(1871)以降「貴船」と改められた。 延喜の制には名神大社となり、二十二社の一つに列せられた。弘仁9年(818)以来歴朝の奉幣、祈願がたびたびあり、もっぱら祈雨、止雨の神として崇められ、祈雨には黒馬、祈晴には白馬または赤馬が献ぜられるのが例であった。 江戸時代には賀茂別雷社(上賀茂神社)の摂社とされたが、明治以後独立した。 本殿、拝殿、権殿(ごんでん)等があり、本殿は文久3年(1863)に改修された。川に沿って上ると奥の宮がある。また、境内には祈雨の行事を行った雨乞の滝、奥宮本殿の西には船石といって船の形に積んだ石墨がある。
乃木神社
当神社は、明治天皇に殉死した陸軍大将乃木希典(まれすけ)(1849~1912)を祀り、伏見桃山御陵のそばの当地に大正5年(1916)有志の人々によって創建された。 うつし世を神去りましし大君の みあとしたひて我はゆくなり 表門は四脚入母屋造(いりもやづくり)、門扉は樹齢3000年の紅檜一幹で、巾6尺3寸余(約1.9メートル)の一枚板である。 境内には、日露戦争のときに第三軍司令部に用いたという中国風の民家、乃木将軍の遺墨、遺品、ゆかりの人々の品などを陳列した宝物館、そして、長府(山口県)にある将軍の生家を模した建物がある。 ◆由緒 大正元年九月十三日、明治天皇の崩御に殉じて乃木将軍御夫妻が自刃された。その誠烈に感激して乃木邸へ来観する人々は日を追って数を増した。そこで当時の東京市長阪谷芳郎男爵等が旧邸を保存し且つ御夫妻の英霊を祀り国民崇敬の祠となさんことを期し、中央乃木会を発足、明治神宮の御鎮座に続いて(大正十二年十一月一日)乃木神社御鎮座祭を執行する。昭和二十年五月二十五日、空襲により本殿以下社殿が焼失したが、全国崇敬者の熱誠により、昭和三十七年九月十三日復興した。 ◆御神徳 乃木将軍の御高徳を一語にして表すならば、忠誠に尽きる。また、明治という光輝ある時代の象徴として御祭神は祀られている。幾世代と時代が変遷しようとも、乃木将軍の自らに対し、そして国に対し誠を以て生涯を貫かれた御事蹟は、稍もすれば忘れがちな、「日本」は我々一人一人の精神の中にあるのだ、という御神訓として生きつづけるであろう。 また、乃木将軍は文武両道の神である。武に於いては一振り振り下ろせば全てを打ち払う王者の剣であり、文に於いては学習院院長時代の御事蹟が示すように教行両全の真の学問の神であらせられる。
藤森神社
素盞鳴命(すさのうのみこと)を主神とし、あわせて神功(じんぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を奉祀し、洛南深草の産土神として崇敬されている古社である。 本殿は、正徳2年(1712)中御門天皇より賜わった宮中内侍所(ないしどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。 また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は、磐長(いわなが)姫命を祀る。 とくに、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 社殿は、永享10年(1438)足利義教(よしのり)の造営と伝えられ、重要文化財に指定されている。 なお、毎年5月5日に行われる当社の例祭、藤森祭には、甲冑鎧に身を固めた武者が供奉し、また境内では「駈馬(かけうま)」が行われる。 これは、当社の祭神が、武神と称されることに因むものである。 ◆由緒 平安遷都以前に建立された古社で、素盞鳴(すさのおの)命(みこと)、神(じん)功(ぐう)皇后、日本武尊(やまとたけるのみこと)など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土(うぶすな)神(がみ)として崇敬されている。 「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年五月五日に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈(かけ)馬(うま)神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。 また、日本書紀の編者であり、日本最初の学者である舎人親王(とねりしんのう)を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。 本殿は、正徳二年(1712)に中御門(なかみかど)天皇より賜った宮中内(ない)侍所(しどころ)(賢所(かしこどころ))の建物といわれる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇を祀り、西にある大将軍社は磐(いわ)長(なが)姫(ひめ)命(のみこと)を祀る。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀(まつ)られた社(やしろ)の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。 本殿東の、神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名付けられたという名水「不二(ふじ)の水」は有名である。 六月の紫陽花(あじさい)が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。
醍醐寺霊宝館
東丸神社
江戸中期の国学者で伏見稲荷大社の社家に生まれた荷田春満(かだのあずままろ)を祭る。 春満は賀茂真淵の師で本居宣長らとともに国学の四大人の一人。 近くに旧宅と墓地がある。 1883年(明治16)春満に正四位が贈られたのを記念して社殿を造営、創祀された。 1936年(昭和11年)に現本殿に改造営される。 以来「学問向上、受験合格」の神として広く崇敬される。 ◆由緒 祭神荷田東丸(春満)大人は、寛文九年(1669)正月三日この地に誕生、本名は羽倉信盛と申し幼少より歌道並びに書道に秀れ、長じては国史、律令、古文古歌、さては諸家の記伝にいたるまで独学にて博く通じ、殊に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して自由な本来の姿に立ち返らしめんとしました。 元禄十年(1697)29才の時から妙法院宮に歌道の師として進講されましたが、大人は当時幕府が朱子学を政治の指導理念としていたために、書を学ぶ者が極端に漢風にのみ走ることをみて、古学廃絶の危機にあるを憂え、古学復興こそ急務であるとして われならで かけのたれをの たれかよに あかつきつくる こえをまつらむ の一首をのこして文化の中心たる江戸に下向されました。江戸在住の間、大人はあえて師を求めず、日夜独力孜孜として研鑽、傍ら門人達に古学を講じました。 その卓越せる学識は世に聞え高く、享保七年(1722)将軍徳川吉宗は、大人の名声を聞きつたえ幕府の蔵書閲覧をことごとくたのみましたので、大人はその間違いなどを訂正し不審の点は細かく説明されました。 その後も将軍吉宗より建議並び百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ偽本の跡を絶たれました。 享保八年(1723)錦衣帰郷された後も、日夜研究著述を旨とされる傍ら賀茂真淵など門人多数に講義されておりましたが、古学普及のためその宿願たる倭学校を東山の地に創建せんとして幕府に提出すべく「請創造倭学校啓」を著されましたが志もむなしく享保十五年(1730)病を得、ついに元文元年(1736)七月二日、68才をもって帰天せられました。 大人病むの報一たび吉宗将軍の許に達するや、将軍より度々秘薬を贈られました。 東丸大人には著書が夥しくありましたが、そのうち研究の未だ足らざるものを残すは却って後世に災いありと学者的良心から、その臨終に際し待床の童子に命じて手近なものは焼かしめられましたが、今なお神祇道、日本史、律令、格式、有職故実、歌道及び語釈に関する遺著及び遺墨が多数残っています。 されば大人の学徳を偲ぶ有志の人々相寄って荷田旧邸の一部であるこの地に社殿を創建し爾来、「学問守護」の神としてひろく崇敬されることとなりました。 ◆東丸大人と赤穂浪士 東丸大人の逸話のうちで、江戸在住中多数の門人に古典古学を講じておられました。 吉良上野介もまた教えを受けた一人でありましたが、大人(通称 羽倉斎)は彼の日頃の汚行を見聞するに及んで教えることをやめられました。 たまたま元禄十年(1697)に以前から親交のあった大石良雄(内蔵助)の訪問をうけ、その後、堀部弥兵衛、同安兵衛、大高源吾等とも交わり、吉良邸の見取図を作り大高に与え、十二月十四日吉良邸に茶会のあることを探って赤穂浪士を援助したこともありました。 なお当社は御祭神の邸跡の一部に建っていますので伏見稲荷大社と境内が隣接していますが別の神社であることを御承知ください。 ◆「としまいり心願成就」 「としまいり」とは願主の年齢と同じ数だけご祈願を重ねることです この竹棒を歳の数だけ持ち本殿と「としまいりの石」との間を心静かにまわり お願いの都度 持っている竹棒を一本づつ箱に納めてください