杉本寺

当山は天平6年(734)の春、光明皇后の御願により大臣藤原房前と僧行基(行基菩薩)に命じ堂宇建立し行基自ら刻むところの十一面観世音を安置された。 次に、仁寿元年(851)に僧円仁(慈覚大師)当山に参籠して十一面観世音を刻み安置し、また寛和2年(985)僧源心(恵心僧都)が花山法皇の命により十一面観世音を刻み安置し、併せて坂東第一番の札所と定め、法皇自ら御順礼有り、夫れより今日に至るまで貴賤の順礼絶えず。時に文治5年11月23日の夜、隣屋より火災起こり、類焼の際、本尊三体自ら庭内の大杉の下に火をさけられたので、それより杉の本の観音と今日迄呼ばれたと「吾妻鏡」は伝えている。 其の後、建久2年9月18日に源頼朝公御堂宇再興せられ、古今の奇瑞に帰依し賜い供養の日に、上の三尊像を内陣に安置し別に今前に立ち賜う立像七尺の十一面観世音を寄進されたものである。なお昔より本尊の賞罰の数ある中に放逸の輩、信心なくして御堂の前を馬にて乗り打ちする者必ず落馬すると云うので、当時は下馬観音と云った。 時に建長寺の開山大覚禅師が此の観音堂に参籠し、尊像を拝し祈願し禅師が所持し賜う袈裟を以て行基菩薩御作の慈眼を覆い奉り、夫れより覆面観音と号し、往来の不浄は彼の袈裟により落馬等の利罪も止むと云う。 依って頼朝時代より秘仏とされたのである。

長勝寺

伊豆に配流されていた日蓮が鎌倉に戻り、この地にあった石井長勝の邸内に庵を結んだことが当寺の発祥です。京都本圀寺の前身と伝えられており、日静の代、貞和元年(1345)に寺号が京都に移った後、石井山長勝寺と号し今日に至ります。 境内の建物のうち、法華堂は県指定重要文化財。室町時代末期の造営と推定されています。また、日蓮大聖人の銅像は、鎌倉辻説法を写しています。 毎年2月11日には、國祷会といわれる厳しい寒さの中で冷水を浴びる荒行が行われます。 ◆由緒 石井山長勝寺と号し、開山は日蓮上人で、本尊も日蓮上人です。 上人の四大法難のひとつである。「松葉ヶ谷焼打」はこのあたりで行われたといわれます。また、この寺の法華堂は県指定重要文化財でもあります。

浄妙寺

当寺は稲荷山と号し、鎌倉五山第五位の寺格をもつ臨済宗建長寺派の古刹である。源頼朝の忠臣で豪勇の士であった足利義兼(1199没)が文治四年(1188)に創建し、初め極楽寺と称した。 開山は退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師で当初は密教系の寺院であったが、建長寺開山蘭溪道隆(らんけいどうりゅう)の弟子月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となってから禅刹に改め、ついで寺名も浄妙寺と称した。 寺名を改称したのは正嘉年間(1257~59)とみられる。歴代の住持には約翁徳倹(やくおうとくけん)・高峰顕日(こうほうけんにち)・竺仙梵僊(じくせんぼんせん)・天岸慧広(てんがんえこう)など名僧が多い。 中興開基は足利尊氏の父貞氏(さだうじ)で、没後当寺に葬られた。至徳三年(1386)足利義満が五山の制を定めた頃は七堂伽藍が完備し、塔頭二十三院を数えたが、火災などのため漸次衰退し、現在は総門・本堂・客殿・庫裡などで伽藍を形成している。 ◆開山略伝 行勇律師(1163~1241)は相模国酒匂(さかわ)(小田原市)の人で初名は玄信、荘厳房(しょうごんぼう)と称した。幼くして薙髪(ちはつ)出家し、真言密教を学んだ。養和元年(1181)には鶴岡八幡宮寺の供僧となり、ついで永福寺・大慈寺の別当にも任じ、文治四年(1188)足利義兼が当山を建立すると開山に迎えられた。正治元年(1199)栄西が鎌倉に下向すると、その門に入って臨済宗を修め、栄西没後は寿福寺二世に任じている。頼朝や政子に信任されて戒を授ける一方、「所住の寺、海衆満堂」といわれるほど信望され、実朝もあつく帰依した。仁治二年七月、東勝寺で没した。 ◆庭園 天正年間(1500年代)僧が一同に茶を喫した喜泉庵があった。 平成三年復興、開席、庭園は杉苔を主とした枯山水である。喜泉庵で抹茶を喫することができる。 ◆墳墓・旧蹟 本堂うらの墓地に足利貞氏の墓(鎌倉市文化財)がある。『新編相模国風土記稿』に「元弘元年九月五日讃岐守貞氏卒しければ茶毘して当寺に塔を建つ」とあり、古くから、当寺中興開基貞氏の墓塔と伝えてきた。貞氏(1331没)は家時の子で尊氏の父。塔には明徳三年(1392)の銘がある。 熊野社は当寺の鎮守で、もと浄明寺地区の村杜。祭神は素蓋鳴尊。例祭は九月十七日である。境内には尊氏の兄高直が建立した延福寺や直義創建の大休寺などもあったが、いまは廃された。