光明寺

材木座に所在する光明寺は、江戸時代には浄土宗関東十八檀林の第一位として格付けされた格式の高い寺院です。 開山は記主禅師然阿良忠、開基は鎌倉幕府の第4代執権北条経時で、仁治元年(1240)鎌倉に入った良忠のために、経時が佐助ガ谷に寺を建てて蓮華寺と名づけ、それが寛元元年(1243)に現在地に移り光明寺と改められたと伝えます。 元禄11年(1698)建立の本堂は、国指定重要文化財。また、弘化4年(1847)建立の山門は、県指定重要文化財。ことに本堂は、鎌倉で現存する近世仏堂のうちでも最大規模を誇ります。当寺は今なお、建長寺、円覚寺と並ぶ壮大な伽藍を構成しています。 10月12日から15日の間に行われる「十夜法要」の行事は今でも、夜市がたち大勢の人で賑わいます。

九品寺

九品とは、九種類の往生のありさまのことをいいます。、極楽往生を願う人の生前の行いによって定められ。上品・中品・下品のそれぞれに、上生・中生・下生があり合わせて九品とされます。 鎌倉攻めの総大将であった新田義貞が、鎌倉幕府滅亡後に敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、材木座に建立しました。 山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は、新田義貞の筆を写したものといわれます。本尊は阿弥陀三尊です。

長谷寺

長谷寺には次のような伝説がある。養老5年(721)徳道上人が一本の楠の大木で二体の十一面観音を造った。木の本で造った尊像を大和の長谷寺にお祀りし、木の末で造った尊像は縁のある地に出現し、人々を救ってくださいと祈って海に流された。その16年後、天平8年(736)6月18日夜、相模国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたという。その後、尊像は御本尊として鎌倉のこの地に移され、徳道上人を招いて寺を開いたのが、長谷寺の始まりといわれている。 また、康永元年(1342)に足利尊氏が金箔を施し、明徳3年(1392)には足利義満が光背を造って納めたといわれる。現存する資料(宝物舘に展示中)から13世紀半ば(鎌倉時代)には長谷寺が栄えていたことを伺い知ることができる。 ◆観音堂(かんのんどう) 御本尊は十一面観世音菩薩。高さ9.18メートルで、歴史のある木造彫刻の観音像としては日本最大で「長谷観音」の名で知られている。十一面観音は頭上に十一の面をもち、前・左・右各三面、後・項上の各一面でそれぞれ表情がちがい、いろいろな人の願いを聞き救うことを表わしている。長谷観音は、一般の十一面観音と異なり、右手に錫杖、左手に蓮華を差した華瓶を持つ独特な姿で、長谷寺系と呼ばれている。地蔵菩薩と観音菩薩の力を兼ね備えた仏さまとして熱心な信仰者が多く、坂東三十三ヶ所観音霊場の第4番札所として古くから知られている。 【御詠歌】 長谷寺へまいりて 沖をながむれば 由比のみぎはに立つは白波 ◆阿弥陀堂(あみだどう) 御本尊は阿弥陀如来。高さ2.8メートル。源頼朝が42歳の厄除けのために建立し、もとは長谷村の誓願寺に安置されていたが、元禄初年ごろ長谷寺へ移されたと伝えられる。俗に「厄除け阿弥陀」といわれ、鎌倉六阿弥陀の一つとなっている。 ◆地蔵堂(じぞうどう) 地蔵菩薩は、大地の恵みのように偉大な力を持つ仏さまといわれる。地蔵堂の両側には不幸にしてこの世に生まれるこができなかった子供達の供養のために、小さなお地蔵様がそなえられている。 ◆大黒堂(だいこくどう) 御本尊の大黒天は応永19年(1412)室町時代の作で、神祭川県最古の大黒天像であるが、現在は宝物館に安置されている。代わっで「出世開運授け大黒天」が祀られており、江の島・鎌倉七福神巡りの一つとなっている。 ◆弁天堂(べんてんどう) 長谷寺の弁財天は、八臂の小さい像で、放生池のそばの弁天堂に祀られている。言い伝えによれば弘法大師が霊感によりおこもりし自ら刻んだといわれており、弁天堂の裏には大師がおこもりした弁天窟がある。 ◆経蔵(きょうぞう) 経蔵には輪蔵と呼ばれる回転式書架があり、寺院にとって大切な経典が納められている。この輪蔵を一回転することにより経典を読むのと同じ功徳があるといわれる。

妙法寺

ここは、布教のため安房(千葉県南部)から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に草庵、いわゆる松葉ヶ谷御小庵を結んだと伝えられている地です。辻説法などで他宗を非難したため草庵が焼き打ちされた『松葉ヶ谷の法難』の場所もこのあたりであるとの伝承があります。 のちに護良親王の皇子である楞厳丸(日叡)が、悲壮な最期を遂げた父母の供養と日蓮聖人の遺跡を守るためにこの寺を建て、山号を楞厳山としました。本堂は、細川家の寄進による見事な欅造りです。 護良親王の墓がある山頂からは、市街地と海を見渡せます。 ◆松葉谷妙法寺の縁起及び沿革 ◇当山は建長五年(1253)日蓮大聖人が安房より鎌倉に来られ、初めて松葉谷に草庵を結ばれた日蓮宗最初の精舎であります。そして、文応元年(1260)八月二十七日松葉谷法難にあわれる等、身延山に入山される迄二十数年にわたり大聖人が起居された霊蹟で、はじめ松葉谷御小庵と称しのち法華堂と号しました。 ◇四祖の日静上人の高弟、日叡上人は大塔宮護良親王の御子、幼名を楞厳丸(りようごんまる)と呼ぴ、仏門に入って楞厳法親王妙法房日叡と名のられたお方であります。 上人は父宮護良親王の亡くなつた所であり、日蓮大聖人に由縁深い鎌倉の地を慕って、松葉谷に来り延文二年(1357)御小庵の跡に堂塔伽藍を復興されました。そして楞厳丸(りようごんまる)の名にちなんで楞厳山妙法寺と称し、山頂に、父宮母官の墓を建てその冥福を祈られました。 ◇以来勅願寺となり日蓮宗の名刹として法燈がうけ継がれ、永正の頃十一世日澄上人は「日蓮上人註画讃」「法華啓運抄」等いく多の著書を著わし、学僧として世に知られました。 ◇化政期に及び三十二世日応上人、三十三世日慈上人は共に徳川光圀創建の水戸三昧堂檀林(さんまいどうだんりん)出身の傑僧でありましたが、寺門の興隆につとめ十一代将軍家斉及び奥女中、水戸徳川家、肥後細川家、加賀前田家、犬山成瀬家、紀伊徳川家及ぴ江戸市民の帰依を受け、日本最初の川施餓鬼を隅田川の永代橋上流水域で行ない、又しきりに江戸に出開帳を行ないました。 十一代将軍家斉またしばしば妙法寺に詣で、そのため総門、仁王門、法華堂は朱塗りにしたと言われます。明治中期まで境内に将軍御成の間が存しました。 ◇貞和元年(1345)日静上人の代に足利尊氏のすすめもあり松葉谷より京都に移った法華堂が現在の京都大本山本圀寺であります。 ◆日蓮大聖人松葉ケ谷御小庵の旧蹟  鎌倉には最初の御小庵又は御草庵と称する寺が二・三ありますが、明確な記録及び歴史的根拠の点より見ても、妙法寺が御小庵の旧蹟であることは決定的であります。 ◆境内の堂塔 当山の伽藍配置はもと正面苔石段上に釈迦堂があり、総門・仁王門・釈迦堂を結ぶ線を中心として法華堂・鐘棲・奥の院・本堂・宝蔵・庫裡が展開する様式で、これは仏教の教主釈尊を信仰の中心と仰ぐ日蓮宗の教義を具現したものであります。  本堂 本尊は一塔両尊四師。文政年間肥後藩主細川家の建立。  法華堂 本尊は除厄祖師、日叡上人作。文化年間水戸家の建立。  奥の院御小庵趾 日蓮大聖人が通算二十年お住いになった所。  大覚殿 中央に釈尊、左に妙法稲荷大明神、右に熊本城天守閣にまつられていた清正公の尊像(細川家寄進)を安置。  御分骨塔 当山開山日蓮大聖人、二祖日朗上人、三祖日印上人、四祖日静上人の御供養塔。  護良親王御墓 後醍醐天皇第一二皇子。建武二年薨。御年二十八。  日叡上人御墓 当山五世。護良親王御遺子。 南の方御墓  日叡上人母君。藤原保藤の娘。新按察典侍。 ◆日蓮大聖人と白猿 文応元年8月27日の宵のこと御小庵で日蓮大聖人が夕べの読経をしておられますと、つと衣の袖をひくものがあります。何ごとかとご覧になりますと、それは一匹の白猿ではありませんか。猿はなおも大聖人の袖をひいていづこかへご案内しようといたします。猿のみちびくまゝに山中に分け入られますと、しばらくして小庵のかたで人々の、ののしりさわぐ音がいたします。 これは自分に危害を加えようとするくわだてがあって、猿が知らせてくれたにちがいない『礼の一言も・・・』ど思われてあたりを見廻すともう猿の姿はありません。 ふと近くには山王権現の祠があります。『猿は山王様のお使い』と聞いているが、今宵は自分を助けるために猿をおつかわしになったのかと思い、山王の祠に一礼し『法華経の行者は必ず天が之をたすける』とあるのはこのことであると、ますます不惜身命のお志をかためられたと伝えております。 ◆除厄生姜 文応元年(1260)8月27日の松葉ヶ谷法難の際、宗祖日蓮大聖人が暴徒の襲撃をお猿畠にさけられた時、白猿か山中のしょうがを大聖人に捧げました。宗祖はこのしょうがを召し上って英気を養われお猿畠よりさらに下総に移られて無事に厄をのがれられたのであります。 以来当山では毎年松葉ヶ谷法難会(8月27日)、龍口法難会(9月12、13日)には御宝前にしょうがを供え『除厄しょうが』として一般参詣者にもこれを供養するならわしとなっております。このしようがを食して除厄を祈願すると身体健全、無病息災の果報が得られるので、当日は多数の善男善女が引きも切らずに参拝に集まります。 ◆妙法寺 松葉が谷楞厳山妙法寺といい、日蓮はここに御小庵を建て法華経(蓮のごとき正しい教え)を説いた。五世日叡の父は護良親王で、祖父は96代後醍醐天皇である。山上に護良親王の墓である。 ◆松葉ヶ谷御小庵跡 建長5年4月(1253)日蓮聖人は安房国清澄寺で日蓮宗を開き、同年夏鎌倉名越に来られ小庵を結び題目を高唱し、立正安国を力説し、文永8年9月(1271)まで布教伝導の拠点とされた庵の霊跡であります。 ◆護良親王 後醍醐天皇の皇太子 当山五世日叡上人の父君 建武の中興の成就に力を尽し、征夷大将軍となったが、のち鎌倉二階堂に幽閉され、建武2年(1335)7月23日波瀾万丈の生涯を終えられた。御年28才。

上行寺

皮膚病、出来物、癌他にご利益があるといわれる瘡守稲荷があります。 瘡守稲荷のお堂に入ると、すべての病、特に癌に効があるとされる瘡守稲荷と身がわり鬼子母神が祀られている。瘡守稲荷の前に座ると、「薬王経石(やくおうきょうせき)」という大きな黒い石が置かれています。この薬石で患部をさすることで痛みや苦しみが楽になり、心の安らぎを得られるご利益があるそうです。(特に癌患部にご利益があるそう)。北条政子が源頼朝の「おでき」を治すため参拝したという話も伝えられています。

成就院

弘法大師さまが全国を巡り修行された折、この地で護摩行・虚空蔵求聞持法等を修められたと伝えられる。 その後、この霊地に承久元年(1219)執権北条泰時が深願を込め高僧を招き本尊に不動明王きまをまつり普明山法立寺成就院(フミョウサン・ホウリュウジ・ジョウジュイン)と名付け建立した。 元弘三年(1333)新田義貞鎌倉攻めの時に堂宇は焼失し近くの西ガ谷に移っていたが、元禄年中に祐尊僧正が旧地に復興し現在に至っている。 本尊は縁結び不動明王さまであり境内のご分身前で「添え護摩木」を焚き清め願意成就を加持祈念する添え護摩供養を修している。 六月には、由比ガ浜を望む108段の階段両側に般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが咲く。

御霊神社

当社の創建は平安時代末期と推定され、当初は関東平氏の祖霊を奉祀していたが、後鎌倉権五郎景政(かげまさ)公一柱となる 源頼朝公始め幕府の崇敬篤く「吾妻鑑(あづまかがみ)」に御霊社鳴動して奉幣するなど所処に記事散見する奇瑞ある神社として有名である 祭神景政公は桓武天皇の末裔、鎮守府将軍平忠道を祖父とし父鎌倉権守景成の代より鎌倉に住し、鎌倉党武士団を率いる一方現在の湘南地域一帯(戸塚、鎌倉、鵠沼、藤沢、茅ヶ崎)を開拓した開発の領守でもある 景政公十六才にて奥州後三年役(永保3年 1083~応徳4年 1087)初陣す 左眼に矢を射立てられしも屈せずして答の矢を射て相手を斃し(たおし)陣中に帰り、其の矢を抜かんと面部に足を掛けし三浦平太の無礼を刀を構えて叱咤した公の剛気と高い志は歌舞伎にもなり武士の鑑(かがみ)と永く仰がれている ◆由緒 御霊神社は、其の昔、鎌倉近辺には大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏五家があり、これら五家の祖を祀る神社として、五霊神社が建てられ、これが御霊神社となり祭神し、いつしか武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政公一柱だけを祀るようになりました この権五郎景政公の命日が9月18日で、この例祭日には昔から面掛け行列という珍しい行事があります。これは、伎楽や舞楽・田楽などに使われる特異な面を十人衆がつけ古いいでたちで街の中をねり歩く県指定の文化財です 此の十一面の中に「福禄寿」が含まれており、此れにちなんで「福禄寿」が宝物庫に安置されています